【生きるチカラをつけるために】勉強をしているだけでは、社会で通用しない

僕は、教育NPOをやっていて、普段から大学生とよく接する。
インターンやボランティア、たくさんの大学生がいて、仕事を頼んだり、ご飯に行くなどの交流も多い。

 

先日の話。

正直、どうしたらいいんだろう。

ええっと。う〜ん。怒り?嘆き?困惑?

よくわからない感情が溢れてきて、1人でモヤモヤしている気持ちになった。
今、うちでインターンをしてくれている大学生がいる。
引き金は、彼だった。

仕事を頼もうと思い、内容を伝える。

「この項目をリストに追加しておいてね」

なんのことはない。

3分ほどで終わるくらいの単純な、あまりにも簡単な作業。
1時間がたった頃、様子を見に行くと固まっている彼の姿があった。
「どしたん?」と、聞いてみると彼はなかなか笑えないことを言ってのけた。

「どれを追加したらいいのかわからないんです。。。」
追加する項目は、7つほどあり、その中から自分で選んでリストに加えてもうおうと思って頼んだ仕事。

「答えがわからなくて。。。」
僕は、このとき日本はこのままでは、とても危ういのではないかと思った。

未来では、たくさんの仕事がロボットにとって変わると言われている。

もしかしたら、日本の教育は、ロボット量産計画で、教育をしている人たちはみんなロボットにそそのかされ、都合の良いように利用されているのではないだろうか。

勘ぐってしまうぐらいに、ちょっとひどい。
“マニュアル人間”という言葉がある。

答えやマニュアルがないと動けない。

自分で考える、判断することができないのだ。
うちのインターン生は、真面目でいいやつだ。

誰もが知っている大学に行って、頭も悪くない。

にも関わらず、だ。

勉強を一所懸命にして、NPOでインターンをガンバっている。
意欲があって、学ぼうとする。
向上心もあって、どんだけ怒られても、這いつくばりながら働いている。

全国の大学生を集めても、平均以上の彼ですら、「答えがわからないんです」と、トンチンカンなことを言う。

答えなんてもの、仕事にはない。

あるのは、仮説だけで、自分で判断をし、どうするかを決めないといけない。

正解のある問いに対しては、キチンと対応できるものの、答えが見えない、正解が決まっていない問いに対しては、てんでダメ。

全くつかえない。
これは、決して彼の責任ではない。

彼は、一所懸命にガンバろうとしてくれている。
しかし、正直なところ、この課題は一朝一夕で解決できるものではない。
僕たちの時代には、まだ外遊びの時代だった。

いろんな友達が集まって、外で遊ぶ。

なにをするかは、いつも集まってから決めていた。

「なにをしよう?」「どんなことをする?」

そこに正解なんてない。

「これおもしろそう」「あっ、こんなルールにしたら?」

自分たちで遊びを考えることも少なくなかった。

チョーク一本だけで、日が落ちるまで遊ぶことができた。
今は違う。

たくさんのものが用意されている

テレビゲーム、人狼ゲーム、キッザニア。

全てルールは決められ、その範囲の中で子どもたちは自由に遊ぶ。

ん?

「自由に遊ぶ」?

いったい、どこに自由があるんだろう?

決まったルールで、いつものメンツで、同じようなことをする。

そこのどこに、自由があるんだろう?
いや、別に、子どもたちは“不自由さ”を感じているわけではないんだろう。
しかし、その結果が“マニュアル人間”の登場だ。
正解がない問いに対しての免疫がなさすぎる。

自分で考えることができない。
どうしたらいいかわからない。
正解のある問いにしか答えられない子は、はっきり言って、社会に必要がない。

Googleで調べれば、たいていのことは出てくる。

決まった作業は、ロボットがする。

知の巨人 ドラッカーは、「これからは知識労働者の時代だ」と言った。

 

考えず、単純な作業は淘汰されていく。
答えなど、どこにもないのだ。

 

僕たちは、こんな現状を憂い、危機感を持って、教室を始めた。

前身の教室から数えると4年近く。
インターン生の様子を見て、改めて、この教室がどれほど今の子どもたちにとって重要かを認識することができた。

勉強は教えない。
知識は教えない。

そんなものは、詰め込めばいい。

ただ、教科書を読み、勉強すればいい。

 

僕は別に学校の教育を否定したいわけじゃない。
学校の勉強はとても大切だ。

体系立てて知識を得る機会は、人生の中でとても重要だと思っている。

言いたいのは、知識を詰め込むだけではいけない、ということ。

文科省も、このことはもちろん理解をしていて、教育もこれからずいぶん変わることになるだろう。

でも、やっぱりまだまだだ。

なにより、学校だけでは自分で考えるチカラは身につかない。

 

僕たちは、放課後、学校の校庭や家の前、たくさんの場所で学んできた。

知らない人の家に入ったボールを取るのがバレたときの言い訳。
全然知らない年上のお兄ちゃんたちとの会話。

いつだって、起きることは想定外。

なにが起きるかわからず、そこにはマニュアルなんてものは、これっぽっちも役に立たない。

知恵、ただそれだけが必要。

ゆっくり考えるヒマなんてない。

考えている間に時間は過ぎて、友達はいなくなっている。

 

僕たちの教室(TRY部)は、真っ白いキャンパスを使う方法を教えている。

今の社会は、キャンパスには全て下絵がほどこされ、どんな色を塗るのかすら指定されているみたいだ。

先生の言ったことを守り、決められたことをする。

決まったことを、ただ淡々と。

お利口な子が賞賛され、優秀な大学へ入る。
そして、悲劇を生むのだ。

社会人から「使えない」と言われ、高学歴をバカにされる。

本人は決して悪くない。

ただ言われて来たことを懸命にやってきたに過ぎない。
彼らには、自分で考える機会がなかったのだ。
ただ、正解がある問いにだけ答える環境にずっと身を置いていた。

“頭がいい”というのは、ただ暗記が出来るだけに過ぎない。

決して、地頭、考えるチカラではない。
当然のように、今の大学ではAO入試や記述式も増え、ただ単に知識を学んでいるだけでは太刀打ちできないようになってきている。

でも、まだまだ考えることができない子どもがたくさんいる。
TRY部では、本人たちがやりたいことをさせる。
1ヶ月間、自分のプロジェクトを立ち上げ、最後に発表。

別にプレゼン力をつけたいわけではない。
キャンパスに自分の好きな色を描く、自由に線を描く訓練をしている。
はじめ入ってきた子どもたちは、みんな戸惑う。

「これでいいんですか?」と、聞いてくる。

僕は、そんなバカみたいな質問を一蹴する。

「自分が良いと思ったらそれで良いよ」、と。
正解なんて社会にはない。

答えがある仕事なんてなくて、小さなことから大きなことまで、1つ1つ自分で選択をし、決定をしなければならない。

だからこそ、TRY部では、子どもたちが“やってみたいこと”、“やりたいこと”をどんどんとさせる。

失敗しようが、うまくいかなかろうが、どうでもいい。

自分でなにがしたいかを考え、工夫しながら取り組むことがとても大切なんだ。

1人旅という大きなプロジェクトであっても、熱帯魚がいる水槽のレイアウトを変えるであっても、なんでも良い。
それぞれの子どもたちが持っている無限の可能性、真っ白なキャンパスに自分が力強く、やりたいことを、誰の目も気にせずに、描いていくことがなによりも大事なこと。

別に、僕たちはなにかを教えているのではない。

ただ、子どもたちを縛っている“正解”という呪いをひたすら解放させようと、はらっているに過ぎない。

決められたキャンパスに決められたことを描くのなんてツマラナイ。

キャンパスの大きさも人それぞれ。

TRY部は、子どもたちがそれぞれが持っている心の白いキャンパスに絵を描く機会をつくっている。

 

きっとそれが、自分で考えるチカラをつけていくことになると思うから。

 

 

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この記事を書いた人

1984年 大阪生まれ 立命館大学文学部卒

中学時代は、部活に打ち込み、勉強では学年で常にトップ10以内。
しかし、中学3年生のときから学校がしんどくなり、誰とも話さなくなる。
野球選手を目指し、大阪の野球強豪校へ行ったものの、自信を失い退部。そこから学校へ行かず、河川敷で過ごす毎日をおくる。
浪人して立命館大学へ入学したものの、なにをしたいかが分からなくなり、行く意味を失う。1回生の夏から1年ほど、京都の下宿で引きこもる。
友人の支えもあり、復活。政治家の秘書やテレビ制作などのインターンをおこない、期間限定のカフェも開く。「自分のようにつらい思いをさせたくない」と思い、D.Liveを立ち上げる。
フリースクールや自信を取り戻す教室を運営。不登校に関する講演や講座もおこなっている。
京都新聞にして子育てコラムを連載中。
詳しいプロフィールはコチラから

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