不登校だった僕が、父の生前の言葉に病室で崩れ落ちた話

たいへん私事ですが、先日父を亡くしました。
このブログで何度も書いている通り、中学入学のころから不登校の道を歩んできた僕。それと同時に実は一人息子でして、両親からするとただひとりの実子が学校に行けなくなった、という見方をすることができます。僕はこれまでの人生で時々それを悔やむことがありました。
自分に兄弟姉妹がひとりでもいれば・・・とか、やっぱり無理にでも毎日学校に通って堅実で真っ当な人生を送るべきだったのではないか、とか。自分が学校に行かないことで両親に迷惑をかけている、と思っていた節もありました。
実際、父に病気が見つかったのは10年前、僕が高校生のとき。苦労の末入学した高校で教師の圧力に根負けし、食事もままならないほどの引きこもりを脱した1年後ぐらいの話で、そのタイミングもあってこれはもう父を病気にさせたのは自分だ、という悔恨の念を持ちながら生きていました。
一人息子なんだから、親の期待に応えなきゃいけない。
思春期真っ只中の僕はそんなことばかり思っていました。しかも僕が大学生のときに年の近い親戚が急逝してしまい、そのとき自分の家系、名字を守るのは自分しかいない、という気持ちに拍車がかかったのもまた事実でした。そんなときにしっかりしなきゃ、と不登校だった自分をまた悔やんだり責めたりもしました。
しかし父の考え方は大きく違っていたようです。
「父の容態が悪化した」という連絡が来たとき、僕は別の仕事へ向かうべく京都駅でバスを待っていたところでした。大慌てで仕事先に断りを入れ病院へ向かうと、もう明らかに呼吸すら苦しむ父の姿がありました。このあと鎮痛剤を投与するので、おそらく意識はなくなります、と。
まさにギリギリのタイミングでした。
そして最後の最後、薄れゆく意識の中で、父は僕にこう言い残しました。
やりたいことをやって生きろ。なんか行くところあったらもう行ってええから。
父の身体に取り付けられていた心電図の機械が赤く「0」を示したのは、それから約30時間後のこと。
父の人徳からか、病室には父の兄姉、姪っ子、その子ども、合わせて11人という大所帯が揃っていました。その瞬間全員が号泣する中、僕は思わず父の眠るベッドの横で崩れ落ち、まるで自らの身体を石で殴るようにひたすら自分で自分を責めていました。
自分が息子で良かったのか、父が病気になったのは自分のせいだ、散々迷惑かけたからや・・・。
しかし、「それは違う!」といきなり反論をはじめたのは、最期の瞬間父の左手をぎゅっと握りしめていた母でした。
普通に学校に通って会社に就職することが当たり前のことだと思っていたけど、それが実は当たり前じゃないって気付かせてくれたのはあんた(僕)なんやから。こういう道があるってことを教えてくれたの、お母さんも感謝してるし、お父さんも同じこと言うてたんやで。
それに呼応するように、そうやぞお前の親父は世界一なんやぞ、お前の責任やない、みんなそれぞれ責任感じてるところもあるんやから、と付け加える伯父(父の実兄)。
僕はただただ、その場に崩れ落ちるしかありませんでした。
両親は、僕が不登校の道を歩んだことに感謝していた。
思春期真っ只中のころ、母と口喧嘩すると間に割って入ったのはいつも父でした。時には深夜・早朝まで、不安定だった時期を支えてくれたのもほかならぬ両親でした。高校に入学してすぐ引きこもりになったとき、生命の覚悟はできているとまで言われたこともありました。
にもかかわらず、こんな道があることに気付かせてくれた僕に感謝している。
僕が不登校の当事者だったころ、両親には本当に苦労を掛けました。毎夜学校をはじめどこかへ出かけては先生方と面談していた時期もありました。もちろんそのころはとても「感謝している」と思う心境ではなかったと思います。
それからなんとか高校を卒業し、一人暮らしの末大学も卒業して、教職免許取得を目指しつつ微力ながら社会に貢献する今。どこでそう思ったのかは定かではありませんが、ひとまず父は他人が敷いた「当たり前」というレールを大きく逸脱した僕のこれまでの歩みに「感謝」して、息を引き取ったのは事実です。
父は最期に「やりたいことをやって生きろ」という言葉を残したわけですが、父自身も葬儀会場はもちろん、自分が棺に入るときの服装や葬式に流すBGM、参列者に振る舞う食事まで、いわゆる「終活」をほぼ完璧に段取りして逝きました。あとで聞けば葬儀屋さんと契約したのは亡くなる20日前だったとのこと。
喪主である母が前に立って挨拶しているとき、僕はハッと気が付いたのでした。
父もまた、「やりたいことをやって生きた」人間だったのだ、と。
「学校に行かない」という「やりたいこと」を許容し、むしろその選択に感謝の念さえ残した父の息子であることを心から感謝していますし、「オレは60で死ぬ」と公言して本当に数え年60歳で亡くなった父の教えや言葉をこうして実践することが、これからの父への恩返しになる、と僕は思っています。
やりたいことをやって生きろ。
僕の「人生訓」がハッキリとした秋になりました。
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