「子どもは地域の中で育てる存在」という概念が、消えようとしている

先日、東京のとある警察署が、不審者情報として公園にいる子どもたちに「さようなら」と声をかけた40代の男の情報を掲載して、様々な波紋を呼びました。
「えっ、こんなことで?」という不審者情報は今に始まったことではありません。数年前、自分の住んでいる地域でも、「深夜に後ろから自転車で追い抜かれた」だけの不審者情報が公開され、やはり大きな議論が巻き起こりました。地元住民としては正直、自宅周辺で自転車に乗るのが少し怖くなりました。
いずれも、本当に声をかけたり自転車で追い抜いた人が本当に不審者だったのかもしれません。が、このような情報は逆に「万が一子どもに助けを求められても、不審者扱いされるなら無視せざるを得ないよね」と感じる人が多かったのも、また事実です。
見えてくる「地域の希薄化」
8年前に亡くなった祖父は、毎朝7時50分に自宅の前に立ち、集団登校の小学生に必ず「おはよう、いってらっしゃい!」と声をかけていました。そういえば祖父は地域の子ども会の恒例行事だった夏休みのラジオ体操にも、元気なころは毎朝欠かさず参加して子どもたちと身体を動かしていました。
こんな「近所のおっちゃん・おばちゃん」という存在が、必ずみなさんの子どもの頃にもいたと思います。
先日の「子どもの自尊感情が低い5つの社会背景」という記事の中にも、「地域の希薄化」という課題がありました。この記事内での「先生や親以外のナナメの関係と言われる人」というのは、このような近所の人たちのことを指しています。
地域の希薄化は、昔と比べて「深い近所付き合いを求めなくなった」人の増加などが要因として挙げられています。で、何故そんな人が増えたかと言えば、単身世帯・サラリーマン世帯の増加、賃貸住宅の在住年度の短さ、など様々な原因があるようです。
(参考:内閣府ホームページ)
言われてみれば岐阜で一人暮らしをしていた5年間で、同じアパートで顔を覚えている住人は階下に住んでいたおじさん、ただ一人。6戸しかなく住人の入れ替わりも頻繁だったアパートでしたが、転入居の挨拶をされたことは1度もなく、自分が入居の挨拶に行ったときも出てきたのはそのおじさんだけ。そのおじさんも、結局最後まで職業などは知らないままでした。
近所のおっちゃん・おばちゃんが、「不審者」に変わる日
先日、自宅で夕食を取っていると近所付き合いの話題になり、父が「昔は親父もおふくろも遅くなる、ってときは、近所のおばちゃんの家でご飯食べさせてもらってたんやけどなぁ」と寂しそうにつぶやいていました。父が子どものころは、地域を通して子どもたちを育てていく、温かく見守っていく、という時代だったんですね。
それが今では夜に子どもたちだけで留守番するのも当たり前になってきました。そして、悪さをした近所の子どもたちを叱ったり、学校から帰ってきた子どもたちを「おかえり」と温かく出迎えることが、一歩間違えれば「不審者」というレッテルを貼られかねない行動に変わってしまいました。
残念ながら今は、「地域ぐるみで子どもたちを温かく包み込み、見守っていく」ことが難しい時代になったようです。
当然、警察から来る不審者情報の中には本当に不審者であろう人物もいますが、何の罪もない、むしろ子どもたちを守りたいが故の行動でも不審者扱いされると、一番誰が困るかと言えば、ほかならぬ「子どもを持つ家庭」ではないでしょうか。実際に、単に草取りをしていたおじいさんが「鎌を持った不審者」として通報された、という話もあるそうです。
怪しい人物がいたら警察に通報するのは当たり前のことです。しかし、かと言って近所の人全員を怪しい人として扱っていると、そのうち「近所の人」が家庭に寄り付かなくなり、下手すると有事のときでも近所の人たちが誰も助けてくれない、ということになりかねません。それが、地域の希薄化や家庭の孤立による子どもの自尊感情低下に繋がっていくことになります。
子どもは、家庭「だけ」で育つ存在ではない、ということ
幸いにも、道行く人やご近所さんで挨拶を交わしあうような、温かい雰囲気が溢れている地域もまだまだあります。先日、会議へ向かうために駅まで急いでいたら、道で縄跳びをしていた近所の小学生に「こんにちは!」と声をかけられ、思わずハッとしました。
「地域の中で温かく見守られて育ってきた」経験は、将来社会の一員として生きていくうえでも、家庭が地域から孤立することを防ぐためにも極めて重要なことです。地域に触れたり、近所の人に言われることで「これはいけないんだ」と認識することもあります。特に近所の人たちへ挨拶する、という行動は、挨拶という「礼儀」を身に着ける下地にもなります。
子どもは家庭だけでなく「地域」の中で育てる存在である、という概念が再認識される日が来ることを願っています。