【子育てで悩むかたへ】島の老婆に子育ての極意を教わった。
瀬戸内海のある島にすごい人がいると聞いて、星崎由紀子は船に乗り、彼女へ会いに行った。
フリーランスで子育てライターをしている由紀子は、おもしろい話が聞けるのではないかと思い、彼女を訪れたのだった。
島や近郊で子育てをする人たちは、みんなその老婆に教えを請うという。
訪れたことについて由紀子が説明すると、老婆は快く家へと彼女を招き入れてくれた。
彼女はじっと由紀子のほうを見つめて、話をはじめた。
子育ては、難しく思えるかもしれん。
みんな悩むぢゃろ?
でも、ほんとうは難しくないんぢゃよ。
大切なのは、本質。
進化論も万有引力の法則も相対性理論も、根本を見るとシンプルなんぢゃ。
子育ても同じ。
ほんとうに大事なのは、たった1つぢゃ。
子育ての本がある?私から言わせてみれば、つまらん。
なにをそんなに書くことがあるんぢゃ?
私が今日話すことは、シンプル過ぎて肩すかしをくらうかもしれん。
それくらいに単純なことなんぢゃよ。
老婆は、「よいしょ」と席を立つと、ホットレモネードを用意してくれた。
甘酸っぱい匂いに誘われながら、由紀子は老婆が語り出すのを待った。
では、1人の少年について話そうかね。
彼は、小さい頃からテニスをやっていた。
運動神経も抜群。
みんなから期待される選手ぢゃった。
すぐに頭角をあらわし、いろんな大会で優勝するようになった。
しかし、彼はどこまでも謙虚だった。
おごりもせず、黙々と練習を重ねた。
他の選手がイヤがるような基礎練習や筋力トレーニングにも力を入れ、一切の弱音を吐かない。
世界を視野に入れていたときに、悲劇は起こったんぢゃ。
はじめは、小さな違和感だった。
なんだか、足がうまく動かない。
数日たつと、どうもなかったかのように動く。
疲れているのかな?
彼は、さして心配していなかった。
しかし、悪夢は突然訪れた。
大会での決勝。
彼の足が急に動かなくなった。
幸い、日常生活に支障はないほどにまで回復したものの、彼は二度と全力でテニスが出来なくなってしまった。
高校生だった彼は、全ての未来を閉ざされた気になっただろう。
ウィンブルドンのセンターコートに立つことを目指し、しんどい練習にも耐えてやってきた。
文句も言わず、ただ黙々とラケットを振った。
にも関わらず、天は彼から全ての未来を奪った。
今まで積み上げてきたものが全て崩れ落ちる音が聞こえたと彼は話してくれたよ。
彼はいろんなことを恨んだらしい。
どうして、自分が。。。
運命を呪い、自暴自棄になった。
学校へも行かなくなり、家に籠もることが多くなった。
しかし、しばらくすると少しずつ学校へ行くようになり、大学へ進学。
今では、夢だと語っていたことをしている。
テニススクールで子どもたちに指導をしながら、テニスショップを経営しているんぢゃよ。
由紀子は、信じられなかった。
とても大きな挫折を経験した少年が、好きなことを仕事にしているという。
心がすさんで、暴れることすらありそうにも関わらず、彼は違う。
「ど..どうして?」
彼が「僕、テニススクールで子どもたちにテニスの楽しさを伝えたいんです。そして、その隣にショップを構えて、テニス好きな人たちと過ごしながら働きたい」と、私に語ってくれたときがあったんぢゃ。
そのときに、聞いてみた。
「ほんとうにできると思うの?」と。
すると、彼は笑いながらこう言ったんぢゃ。
「う〜ん、あんまり自信ないですけどね。ただ、1つ信じていることはあります。うまくいかないことはたくさんあって、しんどいこともあると思います。でも、最後にはきっとうまくいく。ってね。だから、きっと大丈夫ですよ」
ずっとテニスばかりしていた子ぢゃ。
勉強もあまりしてこなかったみたいだった。
にも、関わらず彼は自信がないと言いながらも、「できる」という揺るぎない自信を持っておった。
さっき、私が言うことはシンプルと言ったぢゃろ?
答えは、これぢゃ。
大切なのは、“本当の自信”
これだけぢゃ。
「本当の自信?」
そう。本当の自信。
自信さえあれば、他はなにもいらないんぢゃ。
頭が良かった子が進学して挫折することがあるぢゃろ?
中学では成績優秀だったけれど、進学校へ入学すると他にもすごい人たちがいっぱいいて、自信を失ってしまう子。
これも同じ。
全ては、“自信”なんぢゃ。
“本当の自信”があれば、たとえ進学校へ入って勉強についていけなかったとしても、心が折れてしまうことはないんぢゃ。
私が言っている自信は、決して誰かと比較するものではない。
誰かよりも優れているから、優秀だから自信があるという、条件付きの自信ではない。
比較して得られる自信は、危ういんぢゃ。
そんな自信なら、むしろないほうがいい。
自分より優秀な人、優れた人がたくさんいる環境に入るとスグになくなってしまう。
そんな自信は、まるで蜃気楼のようぢゃ。
私が言っているのは、“本当の自信”ぢゃ。
誰と比べるのでもなく、絶対的なもの。
比較しない、優越をつけられない。
自分より優秀な人に囲まれたとしてもビクともしない自信ぢゃ。
太い幹を持った木は、どんな嵐が来ても倒れることはないだろう?
それと同じ。
本当の自信を持った子は、強い。
決して、折れることがないんぢゃ。
さっきの少年も同じ。
彼は、本当の自信を持っておった。
だから、心が折れてしまいそうな環境になったとしても、自分を見失うことはなかったんぢゃ。
「では、“本当の自信”を持っていれば挫折することはないんですか?」
いいや、そうではない。
挫折は人生につきものぢゃ。
『挫折は人生のスパイス』という言葉を聞いたことがないかえ?
生きていく中で、挫折しないなんてことはない。
もし、あるとしたらそれはきっと挑戦していない人ぢゃ。
なにかをしよう。新しいことに挑戦しよう。
未知のことに取り組めば必ず失敗する。
でも、それでええんぢゃ。
よく自分の子どもに失敗させないようにする親がいるぢゃろ?
自分でレールを引き、危ない場面になりそうだと手を出す。口を出す。
自分の子どもがかわいいのはわかる。
言いたくなるぢゃろう。失敗させたくないなと思う気持ちも理解はできる。
でも、それは長い目で見ているとその子のためにはならないんぢゃ。
一生子どもに尽きっきりで面倒を見ることができるかえ?
できないぢゃろう。
いつかは親離れ、自立をしないといけなんぢゃ。
そのためには、失敗を回避させようとするのではなく、ただ見守ってあげることが懸命なんぢゃよ。
無菌室で育てていても、いつか子どもは社会に出る。
外には悪い菌もある。
イヤな人間もいるし、やりたくない仕事もあるぢゃろう。
うまくいかないこともたくさんある。
失敗してこなかった子は、自分ができない場面、やりたくないことが出てきたときにどうすると思う?
避けるんぢゃよ。
やらない。
失敗しそうなこと、出来ないことは逃げるんぢゃ。
でも、人生はそれでなんとかなるハズはないぢゃろ?
失敗は避けて通れない。
だからこそ、小さい頃からどんどん失敗は経験させていったほうがいいんぢゃ。
守られて育てられた子は、免疫がない。
海外へ行って食事をすると、お腹を壊すことがあるぢゃろ。
あれと同じ。耐性がないんぢゃ。
親としては、守っているつもりに思うかもしれんが、その子のためにはならないんぢゃよ。
「“本当の自信”あっても挫折するのであれば、なにが違うのでしょうか?」
挫折はするんぢゃ。
“本当の自信”を持っていても。
けど、自信を持っていない子と決定的に違うことがあるんぢゃ。
それは、「折れない」ということ。
「折れない..?」
そう。挫折は、する。
うまくいかないこと、ツライこと、ダメになってしまうようなことは誰にでもおとずれる。
でも、“本当の自信”を持っていると、決して折れないんぢゃ。
自信を持てていないと、しんどいことがあると、逃げたり、目を背けたりする。
最悪の場合、挫折したらもう二度と立ち上がることができないこともある。
前途有望な人がたった1度の失敗で無気力になってしまう。
勉強についていけなくて、引きこもりになる。
そんな話は、聞いたことがあるぢゃろ?
“本当の自信”を持っていると、そうはならないと?
ああ、もうダメだ
どうしても、できない。。。
挫折は誰にでもある。
どん底を経験することもあるぢゃろ。
自分を貫き、前へ進んでいこうとしているなら、挫折の数はおのずと増えていく。
でも、“本当の自信”を持っている子と持っていない子には決定的な違いがある。
「決定的な違い?」
しなるのぢゃ。
しなる。。。?
そう。竹のようにしなるのぢゃ。
折れるのではなく、しなる。
しんどい経験を通してしなることでより反発する力が増す。
挫折を経験して、より強くなっていくんぢゃ。
だから、“本当の自信”を持った子にはどんどん挑戦をさせてあげたらいいんぢゃ。
経験すればするほど、どんどん成長していくからのう。
でも、自信を持っていない子は繊細ぢゃ。
どこで折れるかわからん。
まるでガラス細工のようなものぢゃ。
どれだけ勉強ができても、なにか特別な才能や能力を持っていても変わらない。
ただ、繊細なガラス細工が増えるだけ。
いろんな装飾を増やす、能力を高めたところで耐久性は変わらない。
崩壊する、壊れるのは一瞬ぢゃ。
では、学力を高めるのは無意味だと?
うんにゃ。そうは言っておらん。
学ぶことはとても大切ぢゃ。
人は元来、学ぶ楽しさ、知的好奇心を持っておる。
小さい子は、どんなことにも疑問を持つぢゃろ?
「知りたい」という気持ちは、どんな子にも備わっているんぢゃ。
だから、“本当の自信”を育めば、学習する意欲なんてものは勝手に湧いてくる。
「うちの子、勉強の意欲がないんです」と、よく保護者が愚痴っているぢゃろ?
あれは、意欲が足りないのではなく、“本当の自信”がないからぢゃ。
子どもは本能的に自分を守る。
勉強をして失敗するイメージがある。うまくいかないと思っている。
そうなったときに折れる怖さがあるから、意欲を持って机に向かうことができないのぢゃ。
勉強はとても大事ぢゃ。
学力があれば、将来の選択肢も増えるぢゃろう。
可能性も広がる。
しかしぢゃ。
学力だけを高めることは、とても危険なんぢゃ。
“本当の自信”とは、根っこのようなもの。
目に見えない。
だから、人は目に見える部分だけで子どもを判断する。
運動ができる。算数が得意。勉強の成績が優秀。と。
しかし、それはただの枝葉ぢゃ。
強い風がきたらすぐに吹き飛ばされるような、すごくもろいもの。
みんなキレイな花を咲かせたいと思って、どんどん肥料をあげているんぢゃ。
塾に行かせる、習い事をさせる。
そうやって、能力を磨こうとする。スキルを身に着けようとする。
根っこが育っていないと、踏ん張りがきかない。
少しでもしんどいことがあったら耐えられなくなってしまう。
自分より優秀な人がいたら、心が折れてしまう。
学力やスキルの伸ばすのは、二の次でいいんぢゃ。
まずは、“本当の自信”を身に着ける。
根っこを育む。
そうしないと、きれいな花を咲かす前に木は枯れてしまうんぢゃよ。
“本当の自信”が大事なのはわかりました。
自信をつけるためには「成功体験」が重要だと言われます。
ただ、自信を持てていないと、なかなか「できた!」という経験を持てないと思うんですが、どうしたら良いのでしょうか?
自信をつけるためには、成功体験が必要だと言われておる。
でも、違うんぢゃ。
はっきり言えば、成功体験なんていらない。
そんなものは、ただの付け焼き刃ぢゃ。
どれだけ勉強が出来ても、心が折れる子がいるぢゃろ?
彼らには、たくさんの成功体験があった。
にも関わらず、ポキッと折れてしまう。
成功体験が必要なんてものは、ただの幻想ぢゃ。
はじめて補助輪をはずして自転車に乗れたときのことを思い出してみるといい。
「乗れた!」という成功体験があったから、自転車に乗れるようになったかえ?
違うぢゃろ?
「乗れるようになりたい」という気持ちで、何度も何度も倒れながらもサドルにまたがったぢゃろう。
“本当の自信”を得るために、成功体験なんてものは関係ない。必要ないんぢゃよ。
“本当の自信”は、誰にでも持てる。
でも、見えないからこそ人はそれをなおざりにしてしまう。
目に見える成果ばかりにとらわれてしまうんぢゃ。
人は、どうしても比較してしまう。
周りの人よりも優れていると安心し、自分が劣っていると不安になる。
学力、業績、年収。
世の中には、比較するもので溢れておる。
誰だって周りの誰かより劣っているのはいやぢゃ。
我が子が誰かよりも劣っていると感じるのは、親としてはなによりもツライことかもしれん。
だから必死で、「人並みになって欲しい」と思って、苦手なことやできないことを必死で克服させようとするぢゃろ。
勉強ができないから塾へ行かせる。
運動が苦手だから、体操教室へ通わせる。
「特別できなくてもいい。ただ、人並みくらいに」と。
子どもへの愛情、我が子のためにしてあげたいという親の気持ちはわかる。
それを否定するつもりはない。
でもな、それはとてもしんどいんぢゃよ。
「しんどい??」
常に“比較”という物差しで考えていると、ずっと周りを見渡して判断しないといけない。
「ああ、あの子よりも良かったね」
「どうして、あの子よりもできないの!」
子どもにとって、比較されることほどイヤなことはない。
よくあるぢゃろ?
「あの子は優秀なのに、どうしてあなたは。。はぁ」みたいなことが。
比較され、自分が誰かよりも劣っていることがわかるたびに子どもは「自分はダメなやつだ」とバツをつけていく。
親自身も、劣っている我が子を見て落ち込む。
自分を見て落胆する親の姿に子どもはより自分を責める。自信を失っていく。
それが“本当の自信”を奪っていくんぢゃ。
“本当の自信”を育むことは、そこまで難しいことではない。
やりかたは、誰にでもできることなんぢゃよ。
「そんな簡単なこと?」と思うくらいに。
でも、スグに結果が出るということはない。
魔法のように劇的に、一瞬で変えることはできない。
太く長い根を張るためには、手間がかかるんぢゃ。
肥料をあげれば、簡単に早くキレイな花を咲かせることができるかもしれん。
でも、それはすぐに枯れてしまう。
“本当の自信”を育まず、目先の学力やスキルだけを伸ばそうとするのはヤめたほうがええ。
結局、比較して親子共に疲弊していくことになるからのう。
“本当の自信”を育むのぢゃ。
時間はかかる。
目に見えないから、「本当に合っているのか?」と不安になることもあるぢゃろう。
けれど、一度“本当の自信”を手に入れることができれば、一生なくなることはない。
テニスの少年みたく、大きな挫折をしたとしても力強く立ち直ることができるんぢゃ。
(※この物語はフィクションです)