コロナ禍に蔓延する「不機嫌さ」がこわい

今、正直に思っていることを書きます。
新型コロナウイルス禍が叫ばれ続けながら2020年が終わろうとし、今もなお全世界で感染者が増えつづけ、医療逼迫が叫ばれています。たいへんな状況であることに変わりはありません。もちろん私自身も外出時には常にマスク、ボトルを見かけるたびにアルコール消毒を繰り返しています。
新型コロナウイルスを侮ってはいけないことは重々理解しています。ただ、世の中が「新型コロナウイルスに感染しないためなら、人として大事なことさえも置き去りにしていい」という雰囲気になっているのが、ハッキリ言って息苦しくてたまらないのです。
というのは、最近、街を歩いていても、また自分の身の回りの人たちを見ていても、もっというと自分自身に対しても、明らかに「気が立っているな」と思うことがたくさんあるからです。
先日、とある駅の前で目的地までの地図を確認していたら、後ろから「ぺちゃくちゃうるせえんだよ」というおじさんの怒鳴り声が聞こえてきました。
そのおじさんが単純に騒々しい話し声が耳障りだったのか、はたまたウイルスを撒き散らすなという意味で怒ったのかは定かではありません。ただひとつ言えるのは、正直閑静とは程遠い少し規模の大きい街の駅の前で「うるさい」と怒るとはどういう魂胆なのだろう?と自分が感じたということです。
SNSを開けば「えっ、この人こんな物言いする人だっけ?」というほどに言葉にトゲトゲしさを感じる文章に出会い、それが思っていることと違ったら何か言わなければならない、と文章を打ち込む手が止まらなくなってしまう自分がそこにいます。
いつもなら気に留めないことでも、なんてことないやり取りでも、ちょっと気が立ったような言葉遣いや表現で返事をしてしまう。私は日々「機嫌よく」ということをモットーにしていることもあって、最近これは本当によくないな、と寝る前に毎晩反省をする日々を過ごしています。
私はそんなことを目の当たりにするたび、「コロナにかかるのは良くないのに、どんどん人々の心が荒んでいくのは良いことなのか?」と自問自答しています。
少し変な言い方をしますが、感情は「伝染」します。HSP(Highly Sensitive Person:ひといちばい敏感な人)である私は、たとえ電車で隣に座った人であろうとその場で誰かがイライラしていたら一気に不安になります。こういう経験に覚えがある人も多いと思います。
だからこそ、とくに子どもたちと関わる場面では前述した「機嫌よく」ということをモットーにしているわけなのですが、このコロナ禍で「機嫌よくいること」すらはばかってしまうような、そんな雰囲気に少しずつ、少しずつ近づいている気がしています。
それは、たとえばさっきの駅前でうるせえと怒鳴ったおじさんから、SNSで出会うトゲのある文章から、様々な人たちが発する「不機嫌」をもろに受け取ってしまっている証だと思っています。そしてこの不機嫌がともすれば新型コロナウイルス以上のスピードで蔓延して、何かこう変な雰囲気になっている。
新型コロナウイルスに罹患することも怖いですが、私はこの「不機嫌な感情に満ち溢れている」今の世の中のほうがむしろ怖く感じています。
元気でいること、しんどい状況下であっても少しでも楽しく過ごすことは、それこそ人間の根幹に関わる部分です。ここを否定されてしまうと「人として生きること」さえもダメだと言われているような、そんな感覚に(少なくとも自分は)陥ります。
悲しいことに自殺者の数が昨年よりも大幅に増えているという統計が出ています。そういえば数ヶ月前、3週連続で通勤途中に人身事故が起こって電車に閉じ込められました。しかもここのところ毎日「人身事故のため運転を見合わせています」という情報を目にしている気すらします。
最近、この「人身事故のため運転を見合わせています」という情報さえも心にズシンとくるものがあります。強調しますが新型コロナウイルスにかからないための対策は必要です。しかし蔓延を防ぐためには、何をやってもいいのだろうか?という疑念が晴れることはありません。
「医療崩壊しないこと」が人間が生きる上で大事なことだ、と言われればそれまでなのですが、もっともっと根幹のところ、たとえば人とのつながりや生きる意味、こういうところをないがしろにする新型コロナウイルス感染対策は、果たして対策と言えるのか?
その「対策」に気を取られるがあまり、ほかのところで心が折れたり、体調を崩してしまったら、元も子もないのでは?
ここ数週間、そんなことを思いながら、私は日々を生きています。
こんな状況下で、ナーバスになって当然だという思いもあります。しかしながら、コロナ禍によってはびこったこの世の中の不機嫌さは、必ずどこかで断ち切らないと、ひいては不登校に限らず子どもたちの未来に大きく影響を及ぼすことは間違いない、と、私は思っています。