モヤモヤするときは「ぐずぐずする権利」を認めた方がいい気がする。それは自分のためにも
こんにちは、D.Liveスタッフの得津です。
ブログではほとんどお伝えしておりませんでしたが、私たちD.Liveは保護者さんのために思春期や不登校の相談ができるオンラインサロンを運営しております。
サロンでは書籍や新聞記事などの情報を紹介しあったり、サロンメンバーの相談にみんなでコメントし合ったりしています。現在、サロンメンバーは20名ほど。完全に会員制のクローズな形です。
今日は、ぼくがサロンで書いた話が思いのほかコメントや関心をいただいたので、このブログでもご紹介します。
以下、ほぼ原文まま。
■
(タイトルからそうなんですが、オチのあるすっきりした話じゃないです。)
子どもたちと関わっていると、「これでいいのか?」とモヤモヤするときがぼくもあります。悩ましいんですよねぇ。
例えば、1対1の面談のときに進路で悩んでる子がいたら「これがいいんちゃう?」「これしてみたら?」と悩みごとへの道筋を立てようとします。
でも、あんまり響いてる感じじゃない。
まだ子どもは変わらず、あれこれモヤモヤと悩んでる様子。
どうしたらいいんだろうと思ってた時に、鷲田清一さんの『おとなの背中(角川学芸出版)』を読んだんです。鷲田さんは、京都市立芸術大学の学長をされています。どの新聞かは忘れましたが、長く新聞でコラムを連載されているので、鷲田さんを新聞で知っている人もいるかもしれません。
この『おとなの背中』という本に「ぐずぐずする権利」という言葉がありました。
「あ、これだ!」と思いましたね。
悩みを解決しようとあれこれ考えたり提案したりするばかりではなく、悩みを悩みとしてただただ聞く。
子どもの言葉をそのまま受け止める。時間がある限りはぐずぐずしてもいいと思うんです。
ぼくたちの社会って早く決断することが良いことのようじゃないですか。
「スピード感をもって」とか「とにかく決めて行動しよう」とか。仕事をしてたら、ついつい自分もそんなこと言っています。
でも、社会や世の中は思ったより複雑で、パッと決めてすっと動くことなんてできないときもあります。
ぐずぐずモヤモヤして決めれないまま時間ばかりが経つのは、早いことが良いという価値では「よくないこと」と見なされますが、実はぐずぐずすること良い解決法なときも社会にはたくさんあります。
「おぉ。ぐずぐずする権利って素晴らしい。」なんて思ったんですけど、すぐ別の自分が出て来ました!
「いや、でも締め切りやタイムリミットあるやん。」
そうなんだよなぁ。。。そこ、リミットは動かないもんなぁ。
もう一人の自分が出て来て、どうすればいいんだろうとさらにモヤモヤと悩みは続きます。
以上、オチのない話でした。最後に鷲田さんの文章を載せますね。長い引用ですが、ぜひ!
《 けれども、「ぐずぐず」 と思い悩むことは、わたしたちが手放してはならない権利の一つである。それは、問題を前にして自分の意志を決める前に十分な時間的猶予を与えられる権利であるといってもよい。これが権利とみなされるべきであるのは、ひとがなにかある重要な問題について意見を、あるいは意志決定をもとめられながら、じぶんでもよく問題が摑めないときに、それについてもっと多くの情報を得るために時間、あるいは他人の助言や専門家のセカンド・オピニオンを十分に得るために時間、じぶんが言い淀んでいることや迷っていることを他の人によく聴いてもらえる時間、そしてそのなかでやがてある決定を下せるようになるまで、ああでもない、こうでもないと思い悩むプロセス――このプロセスはいつでも訂正可能なふうに開かれている――を認められねばならないからである。
これを権利と捉えるにあたって肝に銘じておきたいのは、理解というものが時間的なものだということだ。たとえば若いころに、もし答えが出なければ生きてゆけないとまで思いつめていた問題が、歳を重ねるとともに色褪せて見えてくることがある。あるいは、あのときはわからなかったけれど今だったらわかるということも起こる。さらには、一つ見えてしまうとそれが他の問題に波及し、他のあらゆることがらをもういちど一から問いなおさなければならなくなるということもある。それらの過程で、内なる抵抗も幾度となく起こる……。このように理解というものはジグザグに進んでゆく。ここでは、すかっと噛み切れる論理より、いつまでも噛み切れない論理のほうが、重い。滑りのよい言葉には、かならず、どこか問題を逸らせている、あるいはすり替えているところがある。理解には、分かる、解る、判る、あるいは思い知る、納得するといったさまざまな様態がある。そのあたりのことが見えてくるまで、ぐずぐず、しこしこ考えつづけるところにこそ、先の 「哲学すること」 の強度もある。時代はなかなかそれを許そうとしないが、その時間を削ぐことだけはしてはならないとおもう。その時間こそ人生そのものなのだろうから》