逃げ場のない厳しさで傷つきやすい世の中だから、小さくても優しさに包まれる共同体をぼくらはつくる

ぼくは怒りを覚えた。
高校生3年生の男の子と話をしていたときのことだ。
彼の話を聞けば聞くほど、彼の担任をしている先生への怒りが腹の奥から湧いてきた。
彼は、文化祭で出し物をしようと企画していた。
クラスや部活の出し物や展示とはちがう有志の出し物だ。
内容は彼の好きなものを生かした出し物で、友人と二人で準備を進めていた。
そもそも、彼が有志で出し物をすることになったきっかけはこうだ。
彼は3年生になってから学校を休みがちで、そろそろ単位も危うい状況だった。本人としてもできるなら毎日登校したいと思っているが、朝になるとどうしても体が動かない日があることが続いていた。
担任の先生としては、この文化祭を機に学校を休まず登校できるようにしたかった。だから彼に「最後の文化祭だし、せっかくだから何かやってみないか」と声をかけた。彼としても好きなものを生かせるならと乗り気になり、先生に出し物の案を伝えたところOKをもらった。
アイデアのOKをもらい、友人も加わったので、順調に進められると思っていた矢先。
担任の先生からストップがかかった。
彼は驚いた。
どうして一度OKをもらったのにストップが掛かるのだと。
担任の先生いわく、必要な手続きを満たしていなかったことや、有志の自分たちだけが楽しい企画なのではということがストップの理由らしかった。
しかし、彼は納得できなかった。
企画はお客さんも楽しめるよう工夫するつもりだったし、必要な手続きがあるなら事前に教えて欲しかった。先生がOKと言ってくれたから、それで大丈夫だと思っていた。
なんとか実施できるように、彼は担任の先生や学年主任の先生と何度か話してみたけれど、彼の考えた出し物は中止になってしまった。
ぼくが彼からこの話を聞いたのは文化祭が終わって数日経ったころだった。
彼は先生とのやり取りをまくし立てるようにぼくに話してくれた。
ぼくも彼と同じく先生の対応には納得できない気持ちだった。彼がせっかく考えたものが出来なかったことに残念さも感じた。しかし、怒りまでは感じなかった。
怒りを感じるようになったのは彼が一通りしゃべったあと、ぼそっと呟いた言葉だ。
「いろいろ考えたことも意味なかったんですよ。せっかくがんばったけど、やっても無駄だって思いました。」
担任の先生は知っているのだろうか。
うつむき、寂しそうな表情でつぶやいた彼の気持ちを。
彼が自分のがんばりを無駄だと言ったことを。
先生の言葉が将来への意欲をも奪ってしまうかもしれないことを。
彼のつぶやきを聞いたぼくは、心に怒りの気持ちがふつふつと湧いているのを感じた。
そもそも学校に復帰することが目的だったんじゃないのか。
そんな手のひらを返すような対応をして、彼が学校や先生へ不信感を持つとは思わないのか。
学校に休まず通うきっかけ作りからほど遠い対応じゃないか。
手続きがあるなら先に言うべきだし、ストップがかかることが分かってたなら最初から「それはできない」と言えば彼が別のアイデアを考える時間もあったんじゃないか。
先生に言いたいことが次々とあふれ、もう彼の代わりにぼくが先生と話をしようかと思ったが、そんなことをしても仕方がない。彼が余計に学校へ行きづらくなるだけだ。
ぼくができることは彼の辛さに共感し、がんばったことは意味があると伝えることだ。
ぼくは彼に伝えた。
この出来事がどのような点で意味があり、同じことを防ぐためにどうすれば良いのかを。
彼だけが悪いわけじゃないことを。
がんばることは決して無駄じゃない、価値のあることなんだと。
彼の表情に明るさが戻ったころに彼と別れ、さきほどの彼の話をもう一度ひとりでふり返ることにした。
すぐに1つの考えが浮かんだ。
もしかしたら担任の先生にも余裕がなかったんじゃないだろうか。
文化祭が近づくにつれ、クラスの出し物の進捗も気になるだろうし、当日の先生たちの役割も職員会議で念押しされる頃だろう。文化祭が終われば個人懇談や通知表の準備もある。彼と話す少し前に別の先生から怒られていたのかもしれない。
実際のところはわからない。
これらは想像でしかない。
もし。
もしそうであるなら。
そんな可能性がわずかでもあるなら、今回の問題を解決するには先生と彼の関係もそうだが、もう少し大きなところへのアプローチが根本的な解決になるのではないか。
思えば今の世の中は失敗や出来ないことへの厳しさがすぎる。
会社では厳しいノルマが課され、失敗すれば責められるばかり。ちょっとした成功は褒められることはなく、できて当たり前のこととして流されていく。
子どもたちの世界も同様だ。
これはある保護者さんから聞いた話だが、受験戦争が厳しい地域や塾ではクラスとしての連帯感はなく、少しでも悪さをはたらいた子を見つければすぐに先生に告げ口するような空気が普通らしい。
ネットの世界はどうか。
残念ながらネットの世界も厳しさが中心だ。相手を言い負かすマウントをとるコミュニケーションが普通だし、オンラインゲームのプレイヤー間のやりとりでも、上手じゃないプレイヤーはすぐに煽られたり文句を言われたりする。
どこもかしこも失敗やできないことに厳しく当たる空気が当たり前になりつつあり、誰もが余裕をなくし、誰もが傷ついているのがいまの世の中なら、余裕や優しさを持って相手と関われるコミュニケーションや空気感や共同体をつくっていくことが高校生の彼と先生のような問題をも解決する方法になる。
だからこそ、ぼくはD.Liveで優しい共同体をつくっていく。
優しい共同体は失敗や出来ないことを甘やかすこととは違う。
失敗したとき、自分が上手にできないことがあるとき、その気持ちを受け入れることができる共同体だ。
アニメでいうと、ちびまる子ちゃんの友蔵。
映画でいうと、魔女の宅急便。
歌手でいうと、ドリカム。
そんなイメージだ。
失敗した時、うまくいかないことがあったときに、
悔しかったね。辛かったね。残念だったね。
こんな風に相手の気持ちを言葉にして受け入れることが、高校生の彼のような努力することの意味を失くしかけたときのセーフティネットになる。
逃げ場のない厳しさで傷ついてしまう社会だからこそ、小さくても優しさで包まれる共同体をつくる。
気持ちを受け止めてくれる優しい居場所があるだけで、人はもう一度チャレンジするための自信やエネルギーを取り戻すことができる。
こういうことを「子どもに、自信を」という言葉でD.Liveは伝えている。そして、子どもが優しさで包まれる居場所づくりや、子どもの気持ちを受け入れられる大人を育てることをD.Liveでは取り組んでいる。
不登校の生徒のためにフリースクールを開いたり、夢や目標を持てない子どもが自信を取り戻す塾をしたり、ひとり親家庭の中学生むけに子ども食堂みたいなこともしている。
講演で思春期の子育てについて話すこともあれば、不登校の子どもの気持ちを理解するための講座もする。きっと滋賀では、もっといえば不登校界隈では初だろうけど、不登校や子育ての相談ができるオンラインサロンをおこなっている。
がんばる意味を失くした子どもや、自分の気持ちを言える相手がいなくて寂しい思いをしている子ども。
周りのプレッシャーから本当は逃げ出したいと思っている子ども、
自分に自信が持てず苦しい思いをしている子ども。
見ようとしないと分からないところで、こんな子どもがたくさんいる。
子どもの気持ちを受け止めるセーフティネットとなる居場所づくりも、ちびまる子ちゃんの友蔵みたいな子どもの気持ちに共感できる大人を増やすことも、まだまだ十分とはいえない。
たくさんの人のチカラが必要だ。
D.Liveは滋賀県の大津市や草津市を中心に活動しており、子どもと関わってくれるボランティアを募集している。
現在10名ほどのボランティアさんがD.Liveの生徒と関わってくれている。もちろん学校や仕事を大事にしてほしいから、週1回これる人もいれば、月1回だけど時間を作ってる人もいる。
とてもありがたいけれど、毎月生徒も増えてきているので一人ひとりを丁寧に見れないときもある。
近くに住んでいたり、働いている人。
特に生徒の年齢に近い学生さんや若手の社会人に加わってほしい。
少しでも興味があれば、詳しい案内を見ていただけないだろうか。
滋賀は遠いし、働いているからボランティアもできない。けど、何か応援したい。
そう思ってくれたあなたはぜひD.Liveに寄付してほしい。
単発でも、毎月の継続でもD.Liveでは寄付を受け付けている。
集まった寄付金は、各教室で使う教材費・フリースクール新設の積立金・学生ボランティアへの交通費や手当に使わせていただきたい。
(毎月の寄付をしてくださるかた限定で、D.Liveから毎月の活動レポートなどをお送りしております)
ボランティアも寄付も難しい。でも何かしたい。
そんな気持ちのあなた。本当にありがとう。
D.Liveは活動や思いを発信できる機会やチャンスを探している。
講演先として紹介していただいたり、新聞社やwebメディアのかたに紹介してもらったり、何かのイベントや講演にD.Liveスタッフをゲストに呼んだりしてくれるのもとっても嬉しい。
なんならこの記事やHPをSNSでシェアしてくれるだけでも嬉しい。
厳しさに傷ついた子どもたちが自信を取り戻せる社会や共同体をつくるために、
どうか、あなたの力を貸していただけないだろうか。
●D.Liveの活動について詳しく知る
>>1ページで分かるD.Liveをみる>>講演・イベントレポートを読む●ご支援について詳しくみる