「いい先生」ってどんな先生なんだろう―不登校だった立場から考える

たとえば、学校のある教師が体罰など不祥事を起こしたとき。たまに、こんなことを言う生徒がいます。
「○○先生は本当はいい先生なのに」
「あの先生のやったことは間違っていない」
つまり不祥事を起こした教師を擁護しているわけです。もちろん、生徒の目からすると本当は「いい先生」なのかもしれませんし、本心で書いている可能性もあります。しかし、もしも生徒がこんなことを思っていたら、上の2つの発言はどう変わるでしょうか。
「○○先生は本当はいい先生なのに(って言っておかないと、あの先生に何を言われるかわからない)」
「あの先生のやったことは間違っていない(とフォローしないと、何されるかわからない)」
もしこの生徒の発言に、カッコ書きで記した気持ちが含まれているのならば、これは純粋に問題を起こした教師を擁護しているわけではなくなってきます。ただ、この先生の「恐怖政治」に、教師が縛り付けられているだけに過ぎません。
先週、2つの本から理不尽な教師との関わりについて考えました。
『ビリギャル』『14歳』とも、主人公に対して向き合うことをしなかった理不尽な教師が描かれていることは先週も書きましたが、2人ともこういった教師に猛烈な敵対心を持っていたことも、また共通点として挙げられます。
しかし、みんながみんな『ビリギャル』のさやかちゃんや、『14歳』のぼく(千原ジュニア)のように、無茶なことや不当な上下関係を突きつける教師に対して敵対心を持てるわけではありません。なかには恐れおののき、「この先生に服従しないと何をされるか分からない」と考える子どもがいます。
この考えが芽生えると、先生に嫌われたら終わりだという思考が働き、子どもは常に嫌われたくない一心で「人の顔色をうかがいながら」生きていく癖がついてしまいます。こうなると、誰かの承認を得られないと自己主張や自らの挑戦ができなくなる。これは自らの自信を形成する上で致命的なものになります。
「先生に嫌われたらどうしよう」という気持ちを隠した上で「○○先生はいい先生なのに」と言われるのは、実はぜんぜんいい先生ではない、と僕は思います。
では、果たして「いい先生」ってどんな先生なのか。
これは、人によって大きく基準が違うことを前提に考えないといけません。
僕が思う「いい先生」には、ある共通点があります。それは、諦めずに僕のことを最後まで見てくださっていた先生。
不登校だった中学3年間お世話になった担任の先生は、毎週月曜日に欠かさず家庭訪問をしてくださり、英語科教諭にも関わらず数学の基礎プリントを解説してくださいました。高校の先生は、僕の父に病気が見つかって精神的に不安定だったときもずっと味方でいてくださいました。
今書いた先生方に、「この先生に服従しないと何をされるか分からない」という気持ちは微塵もありません。先日も、高校の先生と飲みに行く機会がありました。10年前と同じように、他愛もない雑談で大笑いしたり、父の葬式に参列してくださった先生は母や家族のことを気にかけてもくださいました。
僕はこういう先生方に助けられたおかげで、学校という場をドロップアウトすることがなく大学までストレートで卒業できたのだと思います。ここにひとりでも恫喝や体罰を持って接する教師がいたのなら、社会というものをなにひとつとして信用していなかったかもしれません。
「あの先生はいい先生」という話はよく聞きます。もちろんその中に本当に素晴らしい先生もいらっしゃいます。しかし、擁護するための「あの先生はいい先生」というフレーズは、ひょっとしたら「いい先生」ではないのかもしれません。それを見抜くことが、実は大切ではないでしょうか。
◆小冊子『不登校の子が劇的に変わるヒミツ』をプレゼント中◆
下記フォームでお申込みいただくと、メールにファイルを添付し、お送りいたします。