「どうして、八尾市で活動をしようと思っているの?」
普段は、こてこての大阪弁で話すメガネの男性は、僕たちに問いかけた。
「いやぁ、実家に近いからです……」
団体を立ち上げて2年がたった頃。
ようやくやりたいことが見えてきた僕たちは、NPO向けのコンペに出ていた。
事業計画書を作成し、先輩経営者の方々に見て頂く。
僕たちを見てくれたのは、阪神大震災の頃から関西で活動をされている大先輩。
大学を卒業し、僕たちは活動する場所を決めなくてはならなかった。
これまでは、京都で活動をしていた。特に理由があったわけじゃない。
たまたま京都の大学へ行っているメンバーが多かったから。
これからどこでやっていこうか考えたとき、大阪の八尾市が浮かんだ。
理由は、家から近かったから。
それだけ……。
「いや、ちゃんといろいろ調べた? 人口とか地域性、競合の分析とか」
「え……? いや、まったく……」
「おいっ!」
僕たちは、なにもわかっていなかった。
これから本気で事業をしていくというのに、全く考えていなかった。
場所をちゃんと考えないとダメだなんて知らなかった。
そこから、僕たちの場所選びが始まった。
子ども向けに活動したいと思っていたので、子どもが多いところがいいなと思い、いろいろ探す。
不動産屋が発行する雑誌の地域特集を見ていたとき。
ある項目を見て、「あっ!」と思った。
“15歳未満の人口比率”というものがあったのだ。
少子高齢化の時代、子どもの人数がどれだけ多いかを計るには最適な数値。
この数字をもとに、いくつかの場所に絞って決めることにした。
候補に挙がったのは、このようなところ。
兵庫県三田市。
奈良県香芝市。
大阪府鶴見区。
滋賀県草津市。
滋賀県栗東市。
最終的に草津市に決めることになるのだけれど、いろいろな側面から考えてみた。
大阪や奈良は、実家から近い。まだ土地勘もある。
けれど、もう二度と「近いからここにしました」と言うわけにはいかない。
なにが違う?
どこがいい?
行政データを見ながら、様々な数値とにらめっこする。
ここがいいんじゃないか?
ここのほうがいいかも?
いろいろな項目を考えながら、検討を繰り返す。
その中で、すごく魅力的だったのが滋賀県だった。
滋賀には教育団体も少なく、競合がほとんどいない。
子どももどんどん増えていた。
草津駅前には、商店街があり、長年培ってきている歴史があった。
下見に行ったとき、その景色を見て思った。
このまちには、古くからずっと住んでいる人たちがいる。
けれど、マンションが増えていて、これから新しい住民もどんどん流入してくるだろう。
すると、このまちには世代間での断絶がおきる。地域の希薄化がおこる。
そのとき、僕たちがこの人たちのボンドとなり、間に立って、世代間を繋ぐ役割ができるかもしれない。
草津なら、僕たちが役に立てるかもしれない。
そう思って、草津という地を選んだ。
僕は、滋賀県には、ほとんど来たことがなく、琵琶湖も見た記憶がない。
土地勘もなく、知り合いは誰もいない場所だった。
不安がなかったと言えばウソになる。
「この場所でほんとうに良かったのか?」と、何度も思った。
でも、意を決して、草津で活動をすることに決めた。
滋賀県へ住むようになっても、知り合いは誰もいない。
仕事以外で話す人も遊び人もいなかった。
行きつけの店も知った場所もない。
孤独だった。
“ひとり”というのがこれほど孤独なのかと思った。
たまに大阪へ行くと、心の底から安堵した。
知っている場所がこれほど心を落ち着かせてくれるものなのかと、今さらながら気がつく。
夜が来るたび、「大阪へ帰りたい……」と思った。
ざわざわして、人が溢れかえっている大阪のまちが懐かしかった。
いつまでたっても、土地勘が身につかなかった。
滋賀の若手NPOの集まりがあり、合宿に誘われたときのこと。
場所は、滋賀県の余呉。
「15分くらいかなー。自転車で行こうかな」と思っていて、調べてみて驚いた。
電車で2時間もかかるのだ。
野洲から来た人に、「おお! めっちゃ遠いですねっ!」と言えば、「いや……草津から3駅です」と言われる。
彦根の人がいるので、「彦根って近いですよねー」と言えば、「いや、結構遠いですよ」と言われる始末。
見ず知らずの土地。
完全によそ者。
なかなか慣れることができなかった。
「大阪出身なんです」と言うたびに、肩身の狭い気持ちになった。
ホームシックのまま、少しずつだけど活動を続けていく。
すると、ちょっとずつ知り合いができてくる。
草野球に誘っていただき、朝の5時からグラウンドへ顔を出したこともあった。
商店街のかたと知り合い、お仕事をご一緒させていただけるようになった。
団体名を間違われることなんて日常茶飯事で、まだまだ誰も僕たちを知らない。
だから、知り合いが出来るたびに、嬉しかった。
転校したとき、誰かが声をかけてきてくれるみたいに嬉しくて、ありがたかった。
全てご縁だなと、今でも思う。
イベントに参加したり、ご相談に行った方々との繋がりで、より輪が広がっていった。
そして、行政の仕事をいただけるまでになった。
草津市の景観をPRするため、まちあるきマップをつくるお仕事。
大阪出身の自分が、草津のマップを作るなんて可笑しいなと思いながら、まちを歩き、地図をつくった。
まったく知らなかった草津だったのに、いつの間にか草津市役所に行くことが頻繁になり、まちで知り合いに会うことも増えて来た。
「たなかくん、元気にしてるん?」
いろんなところで、地域の人たちが声をかけてくれる。
僕が育ったまちよりも、草津の人たちのほうが声をかけてくれるくらい、僕には知り合いが増えていった。
気がつけば、僕は滋賀県が大好きになっており、草津で仕事をしていることに誇りを感じるようになっていた。
滋賀県を盛り上げたい。
草津を最高のまちにしたい。
統計データを元にして戦略的に選んだまちなのに、僕はいつの間にか、すっかり草津市民、滋賀県人になっていた。
親が遊びに来たら、琵琶湖博物館へ案内し、誇るように琵琶湖を見せた。
「でかいやろ?」と、どや顔して琵琶湖を自慢している自分を、数年前の僕はまったく想像していなかった。
先日のこと。
僕は、草津市長のもとを訪れた。
草津市と友好交流都市である福島県の伊達市とおこなったプロジェクトについて報告するため、時間をとってもらったのだ。
草津市の職員さんと一緒に部屋で待っていると、市長が入ってくる。
僕のほうへ来て、「この前は、ありがとう」と労をねぎらっていただく。
どんな感じだったかを説明して、来年度以降もやりたいことを伝える。
まさか、草津市長とこんなに近い距離で、話しをするときが来るなんて思ってもいなかった。
部屋を出るとき、市長が声をかけてくれた。
「田中さん、中学生の事業もよろしく!」
頭を下げて、部屋を出る。
草津市の職員さんが、小突いてきた。
「よかったやん。名前、覚えられてるやん」
草津市とおこなっている事業で市長が見に来てくれたことがあった。そのときのことを覚えていてくれたのだ。
大阪から草津へやってきたよそ者の僕は、いつの間にか市長に覚えてもらえるようになっていた。
市長との面談が終わると、次は教育長のところへ向かった。
同じく、報告するために。
草津へやってきた当時、学校と仕事がしたかった僕たちは教育委員会へ顔を出した。
けれど、どこの馬の骨かもわからない自分たちは、けんもほろろに対応された。
なのに、5年がたった今では、教育長の部屋をおとずれ、「どう? たなかくん、ガンバってるかい?」と声をかけていただけるまでになった。
目の前にいただいた仕事にコツコツと取り組んでいった結果、たくさんの人とのご縁がつながった。
夏に福島県の伊達市へ行くプロジェクトでは、”総合プロデューサー”という肩書きをいただいた。
このプロジェクトのキッカケは、草津へ来たときに商店街のかたたちと一緒に企画した”クリスマスブーツギャラリー”のご縁だ。
「こんな仕事がしたいんです!」と、草津市や職員さんにプレゼンをしたわけじゃない。
「キミたちなら、これできそうだから」と、声をかけていただいたお仕事ばかり。
僕たちは、よそ者で、バカ者で、若者だ。
出来ないことばかりで、怒られることもたくさんある。
でも、そんなダメダメな僕たちを、草津の人たちは暖かく見守ってくれた。
「キミたちがガンバらなあかんねんで!」と、会うたびに発破をかけてくれた。
「期待しているからね!」と、何度言われたことだろう。
草津でご飯を食べていると、保護者さんが声をかけてくる。
草津市役所を歩くと、当たり前のように知っている人たちがたくさんいて、「どうも、どうも〜」と挨拶をする。
知り合いがゼロだった僕たちは、草津に来て5年。
たくさんの人たちに知っていただき、たくさんの人を知っているようになった。
僕は、草津の人たちに育てていただいたと思っている。
まだまだ、できないことばかりかも知れない。
けれど、滋賀県の基本構想の審議委員に選んでいただき、これからの施策を考えられる立場にもなった。
教育委員会の人が、「先生向けの講演してくれませんか?」と、僕の元へ来てくれるようにもなった。
微力ではあるけれど、僕たちにも出来ることが増えていった。
僕は、このあたたかくて、たくさんの人たちが応援してくれる滋賀県、そして草津市でこれからも恩返しするように、滋賀の子どもたちが笑顔で暮らせるまちをつくっていきたい。