そして、僕は大学へ行けなくなった。〈子育ての講演を全国でおこなう理由〉

「大学をやめようと思うんだ」

大学へ入学して初めてむかえた夏休み。
僕は、両親にそう告げた。

大学に入ったらすべてが変わると思っていた。
だけど……

“ここには何もない”と、数ヶ月通い、思ってしまった。

高校生のとき、僕は学校へ行かなくなった。

プロ野球選手に憧れ、入学した大阪の強豪校。
創部2年で大阪大会決勝まで行った先輩の姿を見て、「この学校へ行きたい」と思った。

入部して、スグにその選択を後悔することになる。

周りは、みんな実績があり、才能に溢れた選手ばかり。
ヘタくそで才能もなかった僕は、引け目を感じずにいられなかった。

練習についていけない。劣っている能力。
気持ちだけが焦る日々。

厳しい練習が終わって帰るとき。ふと思った。

「どうして、自分は野球をやっているのだろうか?」

大好きで、うまくなりたい一心で取り組んでいた野球が、いつの間にか苦痛に変わっていた。

ヘタくそだとバレるのが怖くて、ノックを受けるのが嫌で嫌でたまらなかった。
もうこれ以上、誰かに劣っているのを自覚したくなかった。

きっと、できるハズ。自分はもっとできるんだ。

今まで持っていた根拠のない自信は、気がつくとなくなっていた。

ほとんど無意識で、僕は部長に退部を申し出ていた。

もう全てから逃げ出したかった。
自分の中で大切にしていたものは全てなくなり、心にぽっかりと穴が空いた。
なにもしたくなかった。

僕は野球部をやめた。
そして、学校へ行かなくなった。

子どもがなに言っているんだと笑われるかも知れないけれど、僕は野球に全てをかけていた。
甲子園に行きたかったし、プロの世界を夢見ていた。
1日中、野球漬けの毎日も苦痛ではなかったし、うまくなるのが嬉しかった。

それだけの気持ちで入部したにも関わらず、周りとの才能の違いに現実を突きつけられ、愕然とした。

心が折れてしまった。

退部した翌日から、辞めたことを後悔した。
同級生や先輩が「戻ってこい」と声をかけてくれたけれど、僕にはもうその力は残っていなかった。

やることもなく、僕は学校へ行かず、河川敷でほとんどの日を過ごした。
空を見上げ、これからの人生を考えた。

なにをしよう?
これからどうやって生きていこうか?

考えても考えても、答えは出なかった。

体中から、やる気というものがなくなり、どんなことに対しても意欲が持てなかった。

1年ほどたち、3年生になり、少しずつだけど学校へ行くようになった。
なんとか前を向けるようになり、将来のことについて考えた。

そして、決めた。

「大学へ行こう!」と。

河川敷でいくら考えても、やりたいことは見つからなかった。
ガンバろうと思っても、どんな人生を送りたいかもわからないし、将来が全く見えてこなかった。

きっと大学へ行ったら、答えが見つかるだろう。

そんな淡い期待を胸に秘め、浪人をして、大学へ進学した。

しかし、大学へ入って僕は絶望を感じることになる。

学校では授業を受けて、友達と会話し、帰宅する。ほとんど高校と変わらなかった。
大学に入ると、やりたいことが見つかると思っていたのに、そんなものはどこを探してもなかった。

やりたいことが見つからなくて、苦しいほどの危機感を感じていた僕は、周りが楽しそうにサークル活動をしている姿を見て、もどかしさを感じた。

「ここには、自分が探しているものはない」と思った。

前期の授業が終わり、夏休みに入った頃、両親に「辞めたい」と告げた。

大学に入ったらすべてが変わると思っていた。
やりたいことが見つかり、充実感溢れる日々が過ごせると思っていた。

なのに、毎日ただ授業を受けるだけ。
はっきり言って、時間の無駄だと思った。
少なくとも、ここに僕が探している答えはないと思ったのだ。

しかし、大学を辞めることは許されず、「とにかく、もう少し行ってみなさい」と説得された。

夏休みが明けるも、僕は学校へ行くことができなかった。
行ってもただ授業を受けるだけで、僕が望んでいるものは手に入らない。

またしても、高校時代と同じ。

「これからどうしよう?」
「自分がやりたいことは何なんだ?」

答えもない問いがグルグルと頭の中を周り続ける。

大学への期待が大きかった分、ショックも相当だった。

僕は、外へすら出ることが出来なくなった。

毎日、お弁当の出前(350円)を頼み、食べる。
穴が空くほど天井を見つめていると、だんだん酔ってくる。

おかしくなりそうだった。
なにもしたくなかった。

でも、そんな自分に焦りだけが募っていった。

「このままじゃダメだ」と思うけれど、この先、自分がどうしていったらいいのかがわからなかった。

ガンバりたい気持ちはあったけれど、なにをガンバったらいいのか。
どうしたらいいのか。全く先が見えてこなかった。

転機は、それから1年がたったときに訪れた。

引きこもりが続き、「なにかしたい!」というエネルギーが次第に貯まっていった。

ウズウズして、「なんでもいいから、とにかくなにかしたい」と思うようになった頃だった。

友人から連絡があり、僕のインターンシップの申し込みを勝手にしたと言う。

申し込んだから、あとはエントリーシートを出すだけでいいと言われ、流されるままに、用紙に記入をした。

そして、僕はなぜか夏休みにインターンシップをすることになった。

あとから聞くと、僕の様子を見かねて、「なにかのキッカケになれば」と思い、申し込んでくれたそうだ。

ずっと天井を見つめ、なにもしてこなかった僕は、そのチャンスが有り難かった。
人に出る機会をもらえたことで、僕は一歩を踏み出すことができた。

インターンシップに参加したことで、僕は外の世界へ出ることができた。

もし、あれがなかったら、僕は大学を辞めていたかもしれない。
ずっと引きこもっているままだったかもしれない。

周りの人たちに支えられたことで、僕はしんどかった状態から抜け出すことができた。

就職活動のとき、「こんな僕だからこそ出来ることがある」と思った。

僕は、不登校になり、引きこもりを経験した。
社会には、僕と同じように、苦しみ、悩んでいる子どもたちがたくさんいる。
そんな子たちをなんとかしたいと思い、今の団体を立ち上げた。

『気がついた者の責任』という言葉がNPOには、ある。

子どもの自信に特化して取り組んでいる団体は、どこにもなかった。

29.8%の子どもが「孤独を感じる」と言い、72.5%は「自分はダメな人間だと思うことがある」と答える日本の子どもたち。

自分がなんとかしないでどうする?

教職の授業を3日で辞め、教育なんてほとんどわからなかったけれど、「なんとかしたい」という使命感だけで、団体を立ち上げた。

どうやったらいいのか? なにをしたらいいのか?

全くわからなかったけれど、僕の思いに呼応してくれ、仲間が増えていった。

気がつけば、もう8年がたった。

右も左もわからなかった僕たちだけれど、今では草津市の委託事業で『子どもの居場所』をつくり、教室運営もおこなっている。

経験も知識もなにもない中で、ゼロから学び、子どもと接する中でたくさんのことを会得していった。

わからないことだらけだった。

“自尊感情”というのが大事だと本で読んだものの、それがなになのか、どうやったら高められるのか。

わからないから、全く繋がりもなかったけれど、慶應大学の教授にアポをとり、教えを乞うた。

教室を半年間無料でおこない、試行錯誤しながら現場で学んでいった。

小さな小さな僕たちの学びが少しずつ、形になってきている。

2015年から作成した『子どもの自信白書』は、昨年クラウドファンディング(Webでの寄付)をおこなって、1万部を発行するまでになった。

¥763,000を集め、130人もの方々にご支援いただいた。

発行から半年がたった今でも、鹿児島や北海道、神奈川など全国各地から「読みたい」とお問合せをいただいている。

僕たちは専門家ではなかった。
だから、ただ愚直に現場へ立ち、学んでいった。

「なにをしているかわからない」と言われ続けた教室では、子どもたちが劇的な成長を見せている。

中学時代ほとんどを不登校で過ごしていた子は、「学校へ行けるようになりたい!」と言い、苦手なコミュニケーションを鍛えるために、長野県へひとり旅へ出た。

帰ってくると「大人と話せる自信がついた」と話し、高校へ進学。生徒会に入って、部活にも参加するくらい学校を楽しんで行くようになった。

1人の不登校の中学生は、楽しそうに教室へ来て、学校の担任の先生が見学へ来たとき「この子、こんな顔して笑うのですね。初めて見ました」とまで言うくらい、安心出来る環境をつくってきた。

手探りながらも、子どもたちの成長を1つ1つ作っていくことができている。

これからは、この活動で学び、実践してきたものをもっともっと多くの人たちに伝えていこうと思っている。

滋賀県の教育フォーラムで講師として登壇したときは、「今までよくわからなかった自尊感情がすごく理解できました」と現場の先生たちに言っていただいた。

PTAでは、「他の講演では苦しくなるのですが、田中さんの講演では心がラクになりました」と感想をいただく。

保護者向けの講演では、僕が話しているとき、泣き出す人も少なくない。

先日は、千葉県からご依頼をいただいた。

市原市の青年会議所より、「ぜひ、地域としてどんな関わりが子どもたちに出来るのかお話いただきたい」というお願い。

今まで、イベントや活動は関西圏がほとんど。

なのに、関東からも「講演をして欲しい」というお声かけをいただいたのは、僕たちの活動や話している内容が、たくさんの人たちにとって「必要としている」ということなのだろう。

当日、90分ほどお話をさせていただき、これからおこなう昼の居場所について寄付のお願いをすると、32,500円ものお金をいただくことができた。

関西からは遠く離れた土地の千葉でも、僕たちの活動を理解し、「必要だ」と言ってくれる人たちがいるのは、とにかく嬉しい。

後日、担当のかたから「早速、おっしゃっていただいたことを我が子にしたところ、肩の力が抜けて、ラクになることができました」というメールをいただいた。

僕たちは、どこかの教授でもない。ベテランの先生でもない。
上から偉そうに話をすることは、決してできない。

しかし、這いつくばり、泥水をすするように、苦しみながら培ってきた知識や経験は、きっとたくさんの人たちにとっても励みになると思うのだ。

お話することは、決して机上の空論ではなく、僕たちが実際に子どもと向き合い、取り組んでいきながら得てきた、きわめて実践的な考え方だ。

僕は、いつも思っている。子どもと関わっている人たちは、みんな味方だと。先生も保護者も地域の人たちも関係ない。

みんな子どもの未来を思い、懸命になって子どもと関わっている。

そんな方々へ、たとえ微力であったとしても、なにか役に立てるのであれば、この上なく嬉しい。関西圏以外の地域であっても、喜んでいく。子どもと関わっている人たちの力になれることが、子どもにとっての幸せに繋がるのだから。

あなたのもとでお話できるのを楽しみにしています。


 
 
 

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この記事を書いた人

1984年 大阪生まれ 立命館大学文学部卒

中学時代は、部活に打ち込み、勉強では学年で常にトップ10以内。
しかし、中学3年生のときから学校がしんどくなり、誰とも話さなくなる。
野球選手を目指し、大阪の野球強豪校へ行ったものの、自信を失い退部。そこから学校へ行かず、河川敷で過ごす毎日をおくる。
浪人して立命館大学へ入学したものの、なにをしたいかが分からなくなり、行く意味を失う。1回生の夏から1年ほど、京都の下宿で引きこもる。
友人の支えもあり、復活。政治家の秘書やテレビ制作などのインターンをおこない、期間限定のカフェも開く。「自分のようにつらい思いをさせたくない」と思い、D.Liveを立ち上げる。
フリースクールや自信を取り戻す教室を運営。不登校に関する講演や講座もおこなっている。
京都新聞にして子育てコラムを連載中。
詳しいプロフィールはコチラから

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