不登校経験は武器になりません。「子どもと寄り添えること」が武器です。―「TRY部」「昼TRY部」ボランティア募集

ゴールデンウィークも明け、4月から始まった新生活に慣れてきた大学生や社会人の方も多いと思います。そうなると「何か新しいことに挑戦してみようかな?」と考える方もいらっしゃるでしょう。

弊団体D.Liveでも、年中各事業へのボランティアスタッフを募集していますが、この時期は問い合わせが多くなってきます。ところが、いただいたボランティア希望のメールに目を通していると、やや違和感のある文章とたまに出会うことがあります。

自分の経験から、不登校の子どもたちを救ってあげたい
不登校経験者なので、そういった子どもたちの力になれればいいなと思います

経験を活かす。たしかにボランティアの入口としては手っ取り早いです。とくに弊団体では不登校や自信を持てない子どもたち向けの教室を開いているので、ますます経験を武器に希望される方もおられます。もちろん、そういった志を持ってボランティア希望をされることを否定するつもりなど、毛頭ありません。

ただ、たいへん申し訳ないのですが、ひとつだけ言わせてください。

正直言って、子どもと関わる上で、「経験者」というボランティアの肩書は、たいして役に立ちません。

たとえば、僕も不登校経験者です。

そして、不登校だった自分の経験があるからそれを生かすことができる、という単純な理由で、実際にD.Liveとは別の不登校ボランティアに従事していた経験もあります(もちろんほかにも従事した理由はありましたが)。だからこそ、僕は声を大にして言いたいのです。

子どもと関わる上で、「経験者」というボランティアの肩書は、たいして役に立ちません、と。

極端なことを言えば、ボランティアスタッフは子どもたちの前では経験の有無なんて関係なく、ただのひとりの「大人」です。

いくら不登校だったとしても、東京大学を首席で卒業していたとしても、子どもの目線から見れば、みんなただの「大人」です。学歴がどうだ、経験がどうだ、ということは、子どもの立場からすると「どうでもいいこと」なのです。ただ目の前の大人は自分のことをきちんと理解してくれるかが、よっぽど大事。

不登校ボランティアに従事して間もないころ、僕は事務所に呼び出され、スタッフからこう叱られたことがありました。

「ヤマモトくん、もっと『目線』に気を遣ってくれない?」
「はい?目線ですか?」
「○○くん(子ども)が、ヤマモトくんの目線が時々怖い、とこないだ言ってきたんだ」
「・・・はぁ、わかりました、気をつけます」

率直に書くと、まったく意味が分かりませんでした。自分が不登校だったときに(知らない人の視線はともかく)ボランティアで関わるお兄さんお姉さんの目線が怖いだなんて、ひとつも思ったことがなかったからです。

まして不登校未経験者のボランティアと比べて自分は不登校経験者だ、だからその分強みはあるぞ、という妙なプライドと自信もあったので、スタッフのその一言はまさに青天の霹靂でした。

しかし子どもからすれば、僕の目線が怖いということは事実にほかなりません。ということは改善するしかないのです。もちろんその子どもの行動などに眉をひそめていたわけではなく無意識のうちにそんな目線を送っていたのですが、それからは努めて目線を気をつけるようにしました。

結果、あれから、D.Liveでの活動を含めて、目線に対する指摘を受けたことがありません。ちなみに、この不登校ボランティアを抜けるときは、ボランティア仲間やスタッフからはもちろん、子どもたちもすごく惜しんでくれて、非常に申し訳ないなとすら思ったほどでした。

この一件で僕が学んだのは、「僕が不登校経験者だなんて、相手(子ども)からすればどうだっていいんだな」ということ。不登校を経験したからこそその気持ちがわかる、ということはあるかもしれませんが、逆にそれが足かせとなり、子どもから不信感を抱かれることも、珍しくありません。

上から目線で押し付けがましく、自らの経験談を持ち出してもかえって嫌われます。なぜなら、不登校の子どもたちは、毎日学校から逃れるということに必死なので、別にこの人がそのときどう思ったかなんてなにひとつ待っていないからです。

こうした経験談や自分の不登校にかける思い、当事者だったときの気持ちは、きっとボランティアではなくブログなどで情報発信するほうが役に立つと思います。子どもと関わるボランティアの中でそれが役立つ瞬間は、年に1回あるかないかぐらいのレベルです。

弊団体でいま募集中の子どもと関われるボランティアは、おおまかに2つ。

不登校の子どもたち向けに、毎週月・水・木の午前中に開いている「昼TRY部」、そして不登校のみならず自分に自信が持てなかったり勉強がうまくいかない子どもたち向けに、毎週月・金の夜開いている「TRY部」。ちなみに、上の画像はある日のTRY部の様子を写したものです。

とくに「TRY部」では、大人の経験を語るワークを開くこともたまにあります。しかしあくまでも経験は経験であって、生徒たちはその話から感じたことをそれ以降の生活に必ずしも役立てるわけではありません。そもそも経験を役立てようにも、大人との信頼関係がないとまず話にもなりません。

この2つの教室で大事なのは、どこまで生徒に寄り添うことができるのか、ということ。

TRY部では、「勉強とはなにか?」という、ともすれば哲学のような深いテーマを扱います。当然子どもたちは深く深く考え、ときどきパタリと倒れて「わからんー!!!」と絶叫するほど悶絶します。そのとき生徒が欲しているのは「大人の勉強に関する体験談」じゃないのです。

自分、中学生のころは1日何時間勉強してこういうことしてたよ、っていう経験談は、はっきり言ってその生徒にとってどうでもいいのです。ただ、目の前の「勉強とはなにか?」を解決するヒントがほしいだけ。わからないところをいっしょに解決する、いっしょに悩む、その姿勢を求めているのです。

もちろん、子どもとの寄り添い方のコツなんて最初はわからないと思います。そんなときはスタッフが「こういう感じで関わるといいですよ」、などときちんとレクチャーします。子どもと関わることに単純に興味があります、どう関わればいいか知りたい、というスタンスで大歓迎です。

決して、不登校経験者はボランティアに来ないでほしい、と言っているわけではありません。これは、子どもと寄り添うことに興味がある、関わりを勉強したい、という姿勢が必要なボランティアです。ただ不登校経験が生きることは、思っているほど役に立つ瞬間がないことだけ、伝えておきたいです。

僕自身もいま教員をやりつつ関わっていますが、まだまだ子どもとの関わりや寄り添い方を完璧にマスターしたわけではありません。日々模索しながら子どもたちと関わっています。ここでの活動を通していっしょに学び、互いに子どもたちを支えていけることを、楽しみにしています。

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この記事を書いた人

子どものころより人一倍敏感な特性を持ち、中学3年間を不登校で過ごす。大学卒業後、不登校ボランティアを経て2014年よりD.Liveに参画し、現在は通信制高校教員を両立しながらTRY部や不登校講演事業を中心に担当。HSP(Highly Sensitive Person)特有の繊細さを活かし、今を生きる子どもたちの先生でも友達でもない「ナナメの関係」になることを目指しています。

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