この非常事態を乗り越えるために、子どもたちへ「貢献できる出番」をつくろう

小説家の島崎藤村が、『破戒』という作品の中でこんな一節を書いています。

用が無くて生きているほど世の中に辛いことは無い

いま、この一文に「ぎくっ」とした読者の方も多いのではないでしょうか。

実はこれを書いている僕が一番「ぎくっ」としている自信があります。この4月より職場が変わったのですが、そこで今回の新型コロナウイルスが広がって、新入研修も早々に中断という形でゴールデンウィークまでお休みになってしまいました。

お休みになった分、D.Liveのオンラインフリースクールやオンライン教室に携わったりする生活にはなっているのですが、世の中には自分以外にもさまざまな職種で(一時的なものも含めて)仕事がなくなった、という人も多く出ています。

職場からの連絡でゴールデンウィークまでの休みが確定したとき、真っ先に収入面の不安が頭をよぎりました。しかし一律10万の給付金のほか、意外と今の生活で「お金を使うことがあまりない」、つまり最悪無収入でも数ヶ月は耐えられそうだ、と気がついた瞬間、不安は違うところに飛び火しました。

自分はいまなんの役に立ってるのか?どこに貢献しているのか?

なんだか、それがよくわからなくなったのです。

内田樹 on X (formerly Twitter): “家に引きこもっている人たちがしだいに鬱状態になりつつあるようです。「用事がない人は家から出るな」と言われて素直に家にいたらそれは「お前は社会的に有用性のない人間だ」という宣告に同意しているようなものですから。人間は社会的承認がないとだんだん生きる力を殺がれてゆきます。 / X”

家に引きこもっている人たちがしだいに鬱状態になりつつあるようです。「用事がない人は家から出るな」と言われて素直に家にいたらそれは「お前は社会的に有用性のない人間だ」という宣告に同意しているようなものですから。人間は社会的承認がないとだんだん生きる力を殺がれてゆきます。

内田樹 on X (formerly Twitter): “キャッチボールはボールを受け取る相手に向かってこう告げています。「あなたはそこに存在している。私はあなたがそこに存在していることから楽しみを得ている。だから、これからもあなたが存在し続けることを願っている」承認と祝福。いま必要なのはそれだと思います。 / X”

キャッチボールはボールを受け取る相手に向かってこう告げています。「あなたはそこに存在している。私はあなたがそこに存在していることから楽しみを得ている。だから、これからもあなたが存在し続けることを願っている」承認と祝福。いま必要なのはそれだと思います。

この点は、思想家の内田樹氏もこうした表現で指摘しています。

僕の場合はD.Liveでのオンラインでの教室があり、また仲間内で朝と夕方1日2回Zoomにログインして朝礼や終礼のような機会も持っているので、まだだいぶネットを通じて社会(他者)との接点は保っているほうだと自覚しています。しかしそうした機会がない人もおそらく多いはずです。

それは一人暮らしの人はもちろんのこと、家庭内であっても、社会との接点を断たれたことによって「自らの役割」を見失ってしまっている人も多いと思います。事実、僕も見失いかけているところがあるので「いつそうなってもおかしくない」と思いながら、この外出自粛の雰囲気の中を生きています。

そして今の話は、いつまで続くかもわからない休校期間の真っ只中にいる子どもたちも同様なのではないか、と最近ふと感じることがあります。

たとえば学校には授業が終わったあとの黒板を消す作業から、クラスをまとめる学級委員まで、何かしら集団の中で少しでも貢献することのできる機会がけっこうあります。しかし休校期間の今、黒板を消す必要もなければクラスをまとめる必要もない。もちろん給食の配膳という作業もない。

つまり、大人も子どもも、今「何か(誰か)に貢献すること」が感じにくい世界になっていると思います。

だからこそ、たとえ家庭内であっても「何か(誰か)に貢献すること」を考えなければいけないような気がしています。

最近、身の回りでマスクを作る動きが高まっています。あるご家庭では小学生のお子さんが毎日せっせとマスクを作って、それを近所の人たちに配っているそうです。べつにみんなでマスクを作りましょう!という気はありませんが、こういう「貢献感の高め方」があるんだな、と感心しました。

子どもに限らず、テレワークの業務が続く旦那さんがあまりにも気が詰まるために気分転換も兼ねて積極的に料理をするようになったとか、そういった話も聞くようになってきています。家族内で「家事の分担」を見直して、貢献感を高めるというのもひとつの手だと思います。

みなさんは学校へ行ってない、授業に出ていない、だから何も学んでいないと思っているでしょう。しかし家庭で何もしていないのではなく、読書をすれば日本語だし、テレビでニュースや時事問題を見れば社会、夕食を作れば家庭科というふうに、生活のなかでもさまざまな学びをしています。一学期を振り返って、関係するような内容があったら、ぜひ教えてください。

出典:奥地圭子(2010)『子どもをいちばん大切にする学校』東京シューレ出版 P104

たびたび引用している「東京シューレ」の奥地先生の一節ですが、このなかの言葉を借りれば「夕食を作れば家庭科」の学習となりえます。さっき書いた「マスクを作る」のもミシンを用いたりすればそれも立派な家庭科です。誰かの役に立つことが家庭学習につながることも、たくさんあります。

外出自粛とはいえ、必要な食料品などの買い出し程度には外に出ることがありますが、最近は平日とはいえ日中外に出ると外で遊ぶ子どもたちに出会わない日はありません。大きな公園ではキャッチボールなどをしていたり、道端でも素振りをする野球少年やゲームを囲む子どもたちの様子を目にします。

しかしその反面で、この休校期間中に外へ出ることのない子どもたちもまた大勢いるという考え方もできます。そうした子どもたちのことが、いまとても心配です。

子どもたちからすれば自分たちとは関係のないところで(仕方がない面があるとはいえ)休校となり、しかも期限が近づくたびに期間が延長されている。世間の雰囲気もあいまって、ストレスや不満がたまらないほうがおかしい、とすら思います。

そんな状況で家でじっとしている子どもたちは、今何を思って生活しているのだろうか?

用が無くて生きているほど世の中に辛いことは無い

島崎藤村がのこしたこの言葉を、もしかしたら子どもたちもぐっと噛み締めているような気がします。こんな状況だからこそ、子どもたちも大人もみんな、何かの役に立てることができれば、この非常事態を乗り越えられる大きな手助けになるのではないか、と考える日々を過ごしています。

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この記事を書いた人

子どものころより人一倍敏感な特性を持ち、中学3年間を不登校で過ごす。大学卒業後、不登校ボランティアを経て2014年よりD.Liveに参画し、現在は通信制高校教員を両立しながらTRY部や不登校講演事業を中心に担当。HSP(Highly Sensitive Person)特有の繊細さを活かし、今を生きる子どもたちの先生でも友達でもない「ナナメの関係」になることを目指しています。

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