滋賀へ来ることになった名古屋でのプレゼンの思い出

 

今日は、あるコンペのプレゼン。
取ることが出来れば、自団体にとってかなり追い風になる案件。

僕は、会場へ向かうとき、数年前のことを思い出していた。

 

D.Liveを立ち上げたのは、2009年。
まだ、僕は大学へ通っていた。

卒業後、D.Liveとしてどんな活動をすればいいかわからず、模索する数年。
統計を調べ、社会問題を学び、自分たちがどんな問題を解決したいのか、どんな活動をしたいの考えていた。

社会起業向けのコンペに提出し、叩かれるを繰り返しながら、企画や事業を何度も何度も練り直した。

今、思い起こすのあのときの数年はほとんど記憶にないくらい。
それくらい、なにをしたらいいのかわかっていなかった。

転機は、突然おとずれた。
活動を手伝ってくれていた子が「おもしろい企画があるから行かないかな?」と誘ってくれたのがキッカケだった。

内閣府の事業で、うまくいけば助成金がもらえるとのこと。
何回かのプロジェクトに参加し、最後は静岡での合宿。

合宿の翌日にプランを提出することになっていた。
しかし、合宿最終日になっても、どんな企画を出そうか考えてもなにも思いつかなかった。

「諦めようか。。。」とも考えたけれど、「もうちょっと考えよう」と思い、大浴場で必死で頭をひねった。

小さなひらめきがあったのは、深夜0時を過ぎた頃。
そこから、必死に企画書を作成。

数時間だけ眠り、朝にバスで大阪へ帰ることに。
締め切り時間は、お昼の12時。
パスの中で企画書の続きを作成し、締め切り1分前に送信。

「ダメでもともと」

そんな気持ちで、送った。
まさに一夜漬けで作った企画書。

「悪くはないな」と思ったものの、正直あまり自信はなかった。

けれど、結果は“通過”だった。

その後、最終審査であるプレゼンテーションへとすすむこととなった。

名古屋中心部2

舞台は、名古屋。

どのようにして向かい、帰ったのか全く記憶にない。
けれど、名古屋駅からプレゼンがおこなわれるまでの道のりは今でも鮮明に覚えている。
この審査を通過すれば、10,000,000円と法人化までの保証がもらえる。

まさに伸るか反るか。
大きく人生が変わるかも知れないプレゼン。
うまく話そうとは思わず、ただただ自分の想いのたけを語った。

それから、5年。
あのときのプレゼンがなければ、きっと滋賀で今のように活動はしていなかったと思う。

深夜ギリギリ、「ダメで元々」と思って出した企画書。
それがあったから、今の自分、今のD.Liveがある。

今日のプレゼンが果たしてうまくいったかどうか。
結果はどうなるかわからない。

けれど、チャレンジすることに決して無駄なことはないし、あのときのように、もしかしたらこの日が僕の中で大きな印象に残る出来事になるのかも知れない。

 

最後に、寺山修司が愛した言葉を。


「もし、世界の終わりが明日だとしても、私は今日、林檎の種を蒔くだろう」

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この記事を書いた人

1984年 大阪生まれ 立命館大学文学部卒

中学時代は、部活に打ち込み、勉強では学年で常にトップ10以内。
しかし、中学3年生のときから学校がしんどくなり、誰とも話さなくなる。
野球選手を目指し、大阪の野球強豪校へ行ったものの、自信を失い退部。そこから学校へ行かず、河川敷で過ごす毎日をおくる。
浪人して立命館大学へ入学したものの、なにをしたいかが分からなくなり、行く意味を失う。1回生の夏から1年ほど、京都の下宿で引きこもる。
友人の支えもあり、復活。政治家の秘書やテレビ制作などのインターンをおこない、期間限定のカフェも開く。「自分のようにつらい思いをさせたくない」と思い、D.Liveを立ち上げる。
フリースクールや自信を取り戻す教室を運営。不登校に関する講演や講座もおこなっている。
京都新聞にして子育てコラムを連載中。
詳しいプロフィールはコチラから

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