「この世界の片隅に」のおもしろさが伝わらない理由。映画の感想が共有できない件について

  
「いやぁ、見ていないですね。周りの友達も全然見ていないです」

まぢかっ!!
なんでだっ!

心に言いようのない感情が渦巻く。

あんなにおもしろいのに。。。  

大学生と映画の話になったとき。
みんな、「君の名は」は見ているのに、『この世界の片隅に』は、全然見ていない。
  

「話題になっていますよねぇ。なんか、おもしろいってのは聞きます」

なぜだっ!
なぜ、そこまで知っていて、劇場に足を伸ばさないっ!?
  

小栗旬かオグリキャップか知らないけれど、そんな映画を見るよりも、こっちに行けよ!
(小栗旬も僕は好きですよ。なんなら、一番好きな役者さんです。)
  
  

『この世界の片隅に』を知ったのは、Webだった。
なにかこの映画はすごいみたいな評価を聞き、なんとしても行きたくなって、見に行った。  

僕は、できるだけ前情報を入れたくない人なので、ほとんど内容も知らないままに劇場へ向かった。
知っているのは、戦争の映画。広島の呉が舞台ということくらい。
  
事前に予告は見ていたけれど、「ほんとうにそんなにおもしろいのだろうか?」と、少し懐疑的な思いを持ちながら、チケットを買って、席に座った。
  
  
  

ある映画評論家が言っていた。  
  

この映画は、100年に1本の作品です。

  
  
  

上映後、名前も知らないその映画評論家が言っていた言葉に深くうなずくことになるとは、まさか見る前には思ってもいなかった。
  

初めてだった。
映画を見て、あんな感情になるのは初めてだった。
  

学生時代は、月に3回は映画館へ通い、今でも月に1回くらいのペースで映画は見ている。
他の人たちよりもきっと多くの作品を見ているだろう。

そんな僕が、初めてだった。
  
似た気持ちになったことはあった。
でも、これほどのインパクトにはならなかった。
  
  
エンドロールが全て終わり、明かりが点く。

ううぅ…
  
  
  

なんだろう。
  
  

なんなんだこの気持ちは。
  

悲しい?悔しい?苦しい?
わからない。
  

言葉に出来ない感情が心に渦巻く。

  
  
  

明かりがついてしばらくしても、僕は席を立つことができなかった。
  
  
  

あー、あー、あー

まるでうわごとを繰り返すように、僕はただ音を発していた。
  
  

放心状態というのは、きっとこういうことをいうのだろうと、身を以て感じた。
感情がまるでどっかへ行ったようになり、痛みを感じない。
ふわふわする。
口がぽかーんと開き、まるで夢遊病者のような足取りでイオンを歩く。
  
  
  

僕がこんなに衝撃を受けた映画を、周りの大学生は、一切見ていなかった。
  
  
いや、ゴジラも良いだろう。
スターウォーズもおもしろい。
  
でも、でも、でも。
この映画は、もっと、もっと、もっとたくさんの人たちに見て欲しい。

ああああ、もどかしい。

なぜ、この感動が共有できないんだっ。

  
  
  

先日、大学時代の友人から連絡がきた。
そんなに頻繁にやりとりをしているわけじゃない。
  

なんだろう?と思い、見てみると、
  
  

目次

「あの映画見た?」

  

と書いていた。

そう。
あの映画とは、『この世界の片隅に』のこと。
  
  

「もし、見てないなら、人生損してるで!」  

  

短くそう綴っていた。
  

僕は、そのメールをみて、ほくそ笑んだ。

わかってる。
わかってる。

そうなんだ。
僕もそう思う。

あの映画を見ていない人は、損している、と。

見た人は、共感してくれる。
わかってくれる。

いいよね、あの映画。

気持ちを分かち合える。

でも、見ていない人はそうじゃない。

どれだけ、テレビでおもしろいと言っていようが、僕が唾を飛ばしながら、おもしろさを語ったところで、なぜか伝わらない。

「そうなんやぁ、おもしろいねんなぁ」と、ただそんな感じで終わる。

いやいやいやいやいやっ!
行けよっ!
「明日行ってくる!」くらいに、どうしてならない?

なぜだ?
なぜ、すぐ行動にうつさない?
  
  

どれだけ、たくさんの人に勧めても、見に行く人はほとんどいない。

あああ、もどかしい。

こんなに良いのに。。。。
  
  

確かに、この映画は他とは全然ちがう。

簡単な言葉でいうと、”わかりにくい”のだ。
良さが伝わりにくい。

ゴジラだったら、「ゴジラカッコイイよ!とか。
君の名は。なら、「映像がすごくキレイよ」とか。

誰かに伝えるときに、すごくわかりやすい。

でも、『この世界の片隅に』は違う。  
  

“生きる”や”リアリティ”ってのが、良さなんだけど、見ている人にはそう言っても伝わらない。
決して、わからない。

見た人なら、そうそう!そこそこ、となるのに。
  

きっと、見ていない人からしたらこう思うのだろう。

「へぇ、リアルなんや。それで、なにがおもしろいの?」と。

結局、どれだけ熱意を持って話をしても、”見た人”と”見ていない人”には、大きな溝がある。  
  
  
  

これは、映画に限った話ではなくって、日常のいろんなところで、「わかってくれない」というもどかしさは生まれている。  
  

仕事柄、中高生や保護者と関わる機会が多く、そんな話は日常茶飯事のように聞く。

「先生が私のこと、全然わかってくれへん」
「あの子、なに考えているのか全くわからない」

みんな自分のことをわかって欲しいし、なんでわかってもらえないの!と、モヤモヤする。

  

でも、冷静になって考えてみると、当たり前なのかも知れない。

どうがんばっても、映画を見ていない人にとっては、『この世界の片隅に』は未知の映画だ。

どれだけ情報を入れようが、見た人の話を聞こうが、見てない人にとっては、100%面白さが伝わることは、決してない。

共感はできたとしても、「わかる」まではいかない。
もう、これは、どうしようもない。

 

親子関係も同じ。

立場が違うと、わかりあえないのは当然。

知識や情報量が違う。
見ている景色が別々なのだから、当たり前。
 

わかってくれないの背景には、お互いの中でギャップがあるからだ。

映画で言えば、見た、見ていない。
親子だったら、わかっているつもり、なにもわかってくれようとしていない。

立場が違うと、行き違いがおこる。
 
 

映画の感想を見た人と見ていない人で共有しようというのは、無理なことなのかも知れない。
 
 

大切なのは、ただ、お互いを理解しようとすること。

見た人の気持ちになってみる。
見ていない人の気持ちになって、話をしてみる。

そうやって、互いに歩み寄ることによって、もどかしさというのは小さくなっていくのかもしれない。
 
 
 
 

イベントのお知らせ

 
 
そこまで言って委員会ビラ

「わかってくれないっ!」
「なんで私の話を聞いてくれないのっ!」
 
 

上記で書いたように、立場が違うと、もどかしさは募るばかりです。
親子関係だと、どうしてもお互いが歩み寄ることも難しい。
 

そこで、中高生が大人へ言いたいことを徹底的に話すイベントをおこないます。

普段は、先生に遠慮して言えないこと。親へのホンネ。
なかなか言えないことも、ここでなら言うことができます。

ただ言って終わりではなく、中高生の意見を元にして、大人と一緒にどうやったら良いのかを一緒に考えます。

大人側の主張も話しながら、お互いにどのようにしたら気持ちよく歩み寄ることができるのか、もどかしさが消えていくのかを考えるイベントです。

 

親子で一緒に参加する必要はありません。

中高生で友達と参加する。
ママだけで行く。
パパも参加してみる。

無料イベントなので、ぜひお越しください!!

お申し込みは、下記まで

Kusatsumirai@city.Kusatsu.lg.jp

 
 

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この記事を書いた人

1984年 大阪生まれ 立命館大学文学部卒

中学時代は、部活に打ち込み、勉強では学年で常にトップ10以内。
しかし、中学3年生のときから学校がしんどくなり、誰とも話さなくなる。
野球選手を目指し、大阪の野球強豪校へ行ったものの、自信を失い退部。そこから学校へ行かず、河川敷で過ごす毎日をおくる。
浪人して立命館大学へ入学したものの、なにをしたいかが分からなくなり、行く意味を失う。1回生の夏から1年ほど、京都の下宿で引きこもる。
友人の支えもあり、復活。政治家の秘書やテレビ制作などのインターンをおこない、期間限定のカフェも開く。「自分のようにつらい思いをさせたくない」と思い、D.Liveを立ち上げる。
フリースクールや自信を取り戻す教室を運営。不登校に関する講演や講座もおこなっている。
京都新聞にして子育てコラムを連載中。
詳しいプロフィールはコチラから

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