学校へ行くことは目的?手段?―麹町中学校工藤校長の言葉から考える「手段の目的化」

先日、テレビ東京系列『カンブリア宮殿』で千代田区立麹町中学校の特集が放送されました。

皇居や国会議事堂からほど近いところにあるこの中学校では、「中間・期末テスト」「宿題」「クラス担任」を廃止。その代わりに、テストに関しては単元ごとのミニテストを実施する、クラス担任は決めず複数の教員がチームで学年を持つ、などといった仕組みは、いま全国の教育関係者が大注目しています。

『カンブリア宮殿』ではいま触れたようなところを中心に取り上げていましたが、このほかにもたとえば教員同士の呼び方を「○○先生」ではなく「○○さん」と呼ぶようにする、など、学校で何気なく当たり前のようにやってきた慣例や風習を次々なくしています。

これらすべてを廃止する方向にもっていったのが、校長である工藤勇一先生。ここまで書いたことはほぼすべて、工藤先生の著書『学校の「当たり前」をやめた。―生徒も教師も変わる! 公立名門中学校長の改革』(時事通信社)で紹介されている中身の、ほんの一部に過ぎません。

タイトルにもありますし、先述したように「当たり前のようにやってきた」ことを疑うという意味では、この本は教育関係者以外にも読んで欲しい一冊です。

さて、この本で、工藤先生は「手段の目的化」ということをかなり強く指摘しています。

たとえば中間・期末テスト。いわゆる「定期考査」を廃止したのがまさにこの「手段の目的化」です。試験1週間前に一夜漬けでもなんでもして、遅れた分を必死になって取り戻す勉強スタイルで臨む本番の定期考査は、「テストの点数を取る」という考えであればたしかに有効ではあります。

しかし、本来「テスト」というものは、その生徒の学力を適切に評価しなければいけないもののはずです。一夜漬けで必死に取り戻す勉強スタイルは本の表現を借りれば「瞬間最大風速」でしかない上に、試験が終わってしまえば勉強した中身をどんどん忘れてしまうという難点もあります。

麹町中学校ではこの定期考査の代わりに各単元ごとに終わったら小テストを実施、さらに年5回実力テストを行う方式に切り替えました。そのうえ、単元ごとの小テストは繰り返しチャレンジできる仕組みとしており、たとえば数学の1次方程式の点数が悪ければ復習して再度試験を受けることも可能です。

こうした「手段の目的化」という視点を、工藤先生は不登校の生徒に対しても忘れていません。

勘違いしてはいけないのは、「学校に来る」こと自体は、社会の中でよりよく生きていけるようにするための一つの「手段」にすぎないということです。たとえ、何らかの事情で学校に行けなくなったりしても、学校以外にも学びの場はありますし、社会とつながることだってできます。(中略)逆に、学校にきて学習指導要領に定められたカリキュラムをこなしても、知識を丸暗記してテストでよい点をとれるようになっても、社会でよりよく生きていけるとは限りません。

引用:工藤勇一(2018)『学校の「当たり前」をやめた。-生徒も教師も変わる! 公立名門中学校長の改革』時事通信社 P65

この文章で注目したいのは、「学校が「手段」の一つにすぎない」ということを、現役の、しかも公立の学校長が述べている、という点です。このことを校長先生がおっしゃるということは、不登校の子どもたちや保護者の方々にとってはかなり勇気づけられることなのではないか、と思います。

実際に工藤先生は麹町中学校に着任してすぐ、当時不登校だった生徒と保護者全員と面談をしたそうです。その中で、ある生徒には進路の心配をする必要はない、とした上で「学校に来なくても大丈夫」と言ったそうです。現にこの生徒は希望の進路を叶えた上、進学先では無欠席で通っているのだとか。

本来、教育の目的とはざっくりと書けば「子どもたちが将来、よりよく生きていけるようにする」ためだと思います。「学校へ行く」というのはそのための手段のひとつにしかすぎないにもかかわらず、気がつけば「学校へ行く」ということが目的となってしまう。

その「学校へ行く」ために、無理やり布団を引っ張り剥がして起こしたり、連日夜に学校へ出向いて教員も保護者も疲れている中面談を繰り返す。そこまでしてしまうともう、本末転倒もいいところだというのが工藤先生の考えです。僕もこの点には同調します。

上記の引用の最後にもありますが、仮に学校へ楽しく通えていたとしても、それがそっくりそのまま社会でよりよく生きていけるわけではありません。逆にいま学校へ楽しく通えていたとしても、明日突然「学校に行きたくない」と言い出すかもしれない。学校というのは、そんなところなのです。

あらためて、「学校に行く」ことは目的なのでしょうか、手段なのでしょうか。

先月、岐阜市の教育長が「学校は命をかけて行く場所ではない」と議会の答弁で発言したというニュースがありました。僕はこのニュースを「教育長が発言した」という意味ですごく画期的なものだったと受け取ったのですが、Twitterを見ていると

だったら学校に行かない子はどこに行ったらいいんだ
もっと居場所を作れ

という声も多かったのもまた事実でした。正直、こういった声も「学校に行く」ことが目的化している例だと思います。「学校に必要とされなくなった」という気持ちがあるのかもしれませんが、それはただ言葉の表面だけを受け取っているだけに過ぎません。

工藤先生は学校という場について、この本で「社会の中でよりよく生きていけるようにするための一つの「手段」にすぎない」と力説されています。一つの手段にしか過ぎないのであれば、社会の中でよりよく生きていけるようにするためにはほかにも手段がある、ということを意味しています。

そんな考えがあってもなお、いま不登校の子どもを学校へ戻そうとすることは、果たして良いことなのか?

工藤先生の「目的と手段」で考えると、また違った結論が導き出されるかもしれません。

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この記事を書いた人

子どものころより人一倍敏感な特性を持ち、中学3年間を不登校で過ごす。大学卒業後、不登校ボランティアを経て2014年よりD.Liveに参画し、現在は通信制高校教員を両立しながらTRY部や不登校講演事業を中心に担当。HSP(Highly Sensitive Person)特有の繊細さを活かし、今を生きる子どもたちの先生でも友達でもない「ナナメの関係」になることを目指しています。

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