中学生のとき欲しかったのは、富士山の山小屋だった

中学生の頃、本気でプロ野球選手になろうと思っていた。

”夢”じゃない。目標だった。

「自分ならできる」という、子どもにありがちな思い込みを持ちながら、僕は野球選手になりたいと思っていた。

しかし、その道のりは、孤独で、とにかく苦しかった。

プロを目指している話をすると、周りからは、「ガンバって」と、苦笑交じりに言われる。

親には、「いつまで夢みたいなことを言っているんだ」と鼻で笑われた。

どこにでもある、普通の公立中学校。
野球部が特段強いわけじゃない。いや、むしろ弱かった。

みんな好きで野球をしているけれど、そこまで野球に情熱を注いでいる人はいなかった。

僕は、1日のほとんど全ての時間を野球に費やした。

野球に関する本は、全て読んだ。

3,000円以上もする運動科学の本も読んだ。

週末は、大阪のジュンク堂へ行き、運動生理学なども学んだ。

とにかく、野球がうまくなるためには、どんなことでもした。

左打ちにしたほうが良いと思うと、左打ちに転向した。

左手を使ったほうがうまくなるだろうと思い、生活を全て利き手の右手ではなく、左手を使うことにした。

ノートをとる、ご飯を食べる、歯を磨く。

全て左手を使う。

誰に言われたわけでもない。

自分で考え、自分でやろうと思い、やった。

左手のチャレンジは、左打ちがしっくりくるまでの間、トータル1年以上にわたった。

部活の時間以外での練習メニューも、自分で作成した。

本を読み、良さそうなものはどんどん取り入れた。

うまくなるためには、どんなものだって試した。

「それ、ほんとに?」と今になって思うような怪しいことでさえ、やってみた。

学校の休み時間は、筋トレ本や栄養学の本を読みあさった。

きなこが良いと聞くと、白ご飯に、きなこをふって食べるようにした。

授業中でさえ、筋トレをしていた。

とにかく、うまくなりたかった。

なんとしても、プロ野球選手になろうと思っていた。
でも、それは、とても孤独で、辛い道のりだった。
自分がやっている努力が果たして意味があるのか、全く分からなかった。

美味しくもない、きなこをふりかけた白ご飯にごまをふりかけ、牛乳で流し込む。

授業中のノートは、慣れない左手で書く。

友達とも遊ぶ時間を削って、難しいトレーニング理論の本を読む。

「本当に合っているのだろうか?」

自分が取り組んでいる道のりは、正解なのだろうか?

“野球がうまくなる”、”プロ野球選手になる”という目標に近づいているのだろうか?

全く分からなかった。

ほとんどの人には、ずっと笑われた。

「どうして、白ご飯にきなこをかけているの?」

「左手で文字を書いて、野球がうまくなるの?」

いや、俺も分からへんわっ!
そう、言いたい気持ちをおさえ、「うん」と笑顔で答える。
ずっと手探りだった。
別に、ストイックに孤独に努力がしたいわけじゃない。

だれも、教えてくれないから、自分で試行錯誤するしかなかったのだ。

誰も、筋トレの正しい方法を教えてくれなかった。
どうすれば、野球選手になれるのか、教えてくれなかった。

だから僕は、独学で学ぶしか方法がなかったのだ。
たくさんの方法を試して、自分自身で判断するしかなかった。
孤独で、不安でたまらなくなった日は、たくさんある。

そして、いつの頃からか、僕は他人に理解されようと思うことをやめた。

自分の道を信じるしかないと思い、他の人がなにを言っても聞く耳をもたなかった。
孤独を突き進むうちに、気がつけば、頑なに、頑固になってしまった。

中学生にして、僕はすっかり頑固親父みたいになっていた。
しまいには、練習方針でコーチと対立をして、部活を辞めることになった。

僕は、プロ野球選手になろうと思って、真剣に、一所懸命に努力していたつもりなのに、気がつけば、道をあやまることになってしまった。
あの当時、どうしたらいいか、ほんとに分からなかった。
とにかく、努力という努力、できることは全てやった。
大人になり、たまたま実家へ帰ったときのこと。
部屋から当時の野球ノートが出てきたので、見てみると、ものすごい練習量をこなしていた。

毎日の決めたトレーニングメニュー。
将来の計画。
摂取すべき栄養素。

「これ中学生が書いたのか?」と思えるほど、綿密に書かれていた。

今の自分ですら書けるか分からないくらいのものを、当時の僕は書いていた。

真剣だった。
一途だった。

なんとしても、プロ野球選手になりたかった。

でも、誰も僕を理解してくれる人はいなかった。

「なにか勝手に必死になっている人」みたいに周りからは見られていた。
風車に立ちむかうドンキホーテのように、友達や先生からは見られていたのかも知れない。

「また、やっているわ」と呆れて、見られていたのだろう。
自分が真剣になり、温度が高くなるほど、周りとの温度差を感じるようになった。

部活内でもそう。

意識が低い部員を見て、僕はとにかく苛立っていた。

完全に一人相撲だ。

「どうして、誰も理解してくれないんだっ!」

とにかく、僕は一人で苛立ち、孤独に拍車をかけていった。
孤独だった。
不安だった。

「キミのやり方で合っているよ」
「キミの努力は、間違っていない」
「よくガンバっているね」

そんなさりげない言葉だけで良かった。

だだ、優しく声をかけてくれる、そんな関わりが欲しかった。

“熱血野球少年”、”夢見る男の子”だけで、片づけて欲しくなかった。
たった一人で闘うことがしんどくなり、僕はプロ野球選手になる夢を諦めた。

周りの責任にするつもりはない。

きっと僕に実力がなかっただけなんだ。

でも、周りの関わり方が変わっていれば、もっと僕は楽しく野球が出来ていただろう。

孤独感にさいなまれながら、部屋でむなしく筋トレをする日々は、きっとなかったに違いない。
先日、僕たちが取り組んでいる教室のTRY部で、子どもたちと座談会をした。

「TRY部の良さってなに?」と聞いたとき、生徒が答えた。
「今やっていること、取り組んでいることに対して、”それでいい”、”大丈夫。うまくいっているよ”と言ってもらえるのが、すごく嬉しい。その言葉が自信になる」と言っていた。
そうなんだ。
別に褒めて欲しいわけじゃない。

「すごく努力しているね」なんて言って欲しいわけじゃない。

ただ、「キミのやり方で合っているよ」という、背中を押してくれる言葉が僕は欲しかったんだ。
大学生の頃。
富士山を登っていたときのこと。

登る先には、いつも山小屋が見えていた。

僕は登るとき、「あの山小屋までガンバろう!」と思って、一歩一歩と進んでいった。

その山小屋に辿りつくと、また次の山小屋が見える。

目印があることで、「ちゃんと目的地に近づいている」という実感があった。
中学生のときの僕は、コンパスを持たない登山家だった。

果たして行き先が合っているのかどうか分からない。

できることは、ただ自分を信じて、懸命に歩を進めることだけだった。

なにをガンバっていいのか。
ガンバっていることが合っているのか、全く分からなかった。
だから、自信が持てなかった。

「これで大丈夫」と思うことができていなかった。

常に、「足りない」「足りない」と思い、ハードワークを重ねた。

結果、肩を壊すことにもなった。
思春期の子どもは、みんな自信が持てない。

自分がやっていることが合っているのか間違っているのかも分からない。

結果が伴わないと、その不安はどんどん増していく。

「キミは、ガンバっているよ」
「いい感じだね」

たったそれだけの優しい声かけがあるだけで、自分に自信 を持てる。もっとガンバることができる。

あのとき、僕には、そう言って優しく声をかけてくれる人がいなかった。

もし、そんな人がいたら、な……

と、思ってしまう。

だから、僕は子どもたちにとって、そんな存在になりたいと思う。

そっと背中に手をあてて、「大丈夫。このままいこう」と、優しく押してくれる、そんな大人になりたいと思って、このTRY部をやっているんだ。

あのとき、孤独で潰れそうな僕が、とにかく欲しかった言葉を、子どもたちにかけるために。

 

 

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この記事を書いた人

1984年 大阪生まれ 立命館大学文学部卒

中学時代は、部活に打ち込み、勉強では学年で常にトップ10以内。
しかし、中学3年生のときから学校がしんどくなり、誰とも話さなくなる。
野球選手を目指し、大阪の野球強豪校へ行ったものの、自信を失い退部。そこから学校へ行かず、河川敷で過ごす毎日をおくる。
浪人して立命館大学へ入学したものの、なにをしたいかが分からなくなり、行く意味を失う。1回生の夏から1年ほど、京都の下宿で引きこもる。
友人の支えもあり、復活。政治家の秘書やテレビ制作などのインターンをおこない、期間限定のカフェも開く。「自分のようにつらい思いをさせたくない」と思い、D.Liveを立ち上げる。
フリースクールや自信を取り戻す教室を運営。不登校に関する講演や講座もおこなっている。
京都新聞にして子育てコラムを連載中。
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