子どもが言う「暇」とは、心の空白なのかもしれない

保護者のかたからいただく相談で多いのが、「うちの子が暇、暇と言います」というもの。
実際、どんな気持ちで言っているか生徒に聞くと、「構って欲しいねん」「めっちゃいいアイデアとかそんなに求めてない」「なに言われても、あんまやろうと思わへんし」とのこと。
たしかに、保護者のかたから「いやぁ、いろいろアドバイスとか提案しても、なんか納得してもらえないんです」と聞く。
なるほどなぁなんて思いつつ、子どもたちの話を聞いていた。
後日、TRY部を卒業する生徒とTRY部のなにが良かったのか? どうして参加したのかについて話した。
彼は、「一人で暇だった」と。
ふむふむ。
「TRY部にいるだけで、なんか良かった」とも言う。
ほうほう。
そんなことを聞きながら、子どもが言う「暇」とは、心の空白なのかもしれないなと思った。
心にぽっかりと空いた穴。
なにかたりない。
なんだか孤独。
なんだかツマラナイ。
ちょっとした違和感。
たとえるなら、空気が薄い感覚。
酸素は当たり前にあって、空気は当然のもの。でも、目に見えないから、少なくなっても気がつきにくい。
不登校の子が失っているのは、目に見えないこれまで当たり前にあったものなのかもしれない。
僕自身、不登校のときに圧倒的にたりなかったのは、手応えだ。
生きている実感ともいえるのか、なんだかツマラナイし、退屈だし、さびしい。
でも、じゃあなにが欲しいかって言われると難しい。
人が恋しいのは当然だけど、じゃあ「友達が欲しいの?」と言われると、なんか違う気もする。
熱中出来るものが欲しいけど、なにかを頑張りたいってほど気力もない。
コミュニティや居場所は、そんな”なにかたりない”を埋めてくれるところなんだろうなぁと思った。
これがあるから参加する。
この人がいるから参加する。
このゲームが出来るから楽しい。
そうではなく、ただいる、ただ所属していることで、心の空白は埋まるのかもしれない。
「やっと息が出来た」という感覚を得られるのが、コミュニティであり、居場所ではないのだろうか。