子どもが言う「暇」とは、心の空白なのかもしれない

保護者のかたからいただく相談で多いのが、「うちの子が暇、暇と言います」というもの。

実際、どんな気持ちで言っているか生徒に聞くと、「構って欲しいねん」「めっちゃいいアイデアとかそんなに求めてない」「なに言われても、あんまやろうと思わへんし」とのこと。

たしかに、保護者のかたから「いやぁ、いろいろアドバイスとか提案しても、なんか納得してもらえないんです」と聞く。

なるほどなぁなんて思いつつ、子どもたちの話を聞いていた。

後日、TRY部を卒業する生徒とTRY部のなにが良かったのか? どうして参加したのかについて話した。

彼は、「一人で暇だった」と。

ふむふむ。

「TRY部にいるだけで、なんか良かった」とも言う。

ほうほう。

そんなことを聞きながら、子どもが言う「暇」とは、心の空白なのかもしれないなと思った。

 

不登校は、なにかがたりない

 

心にぽっかりと空いた穴。

なにかたりない。
なんだか孤独。
なんだかツマラナイ。

ちょっとした違和感。

たとえるなら、空気が薄い感覚。

酸素は当たり前にあって、空気は当然のもの。でも、目に見えないから、少なくなっても気がつきにくい。

不登校の子が失っているのは、目に見えないこれまで当たり前にあったものなのかもしれない。

僕自身、不登校のときに圧倒的にたりなかったのは、手応えだ。

生きている実感ともいえるのか、なんだかツマラナイし、退屈だし、さびしい。

でも、じゃあなにが欲しいかって言われると難しい。

人が恋しいのは当然だけど、じゃあ「友達が欲しいの?」と言われると、なんか違う気もする。

熱中出来るものが欲しいけど、なにかを頑張りたいってほど気力もない。

 

ただ、いるだけでいい

 

コミュニティや居場所は、そんな”なにかたりない”を埋めてくれるところなんだろうなぁと思った。

これがあるから参加する。
この人がいるから参加する。
このゲームが出来るから楽しい。

そうではなく、ただいる、ただ所属していることで、心の空白は埋まるのかもしれない。

「やっと息が出来た」という感覚を得られるのが、コミュニティであり、居場所ではないのだろうか。

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この記事を書いた人

1984年 大阪生まれ 立命館大学文学部卒

中学時代は、部活に打ち込み、勉強では学年で常にトップ10以内。
しかし、中学3年生のときから学校がしんどくなり、誰とも話さなくなる。
野球選手を目指し、大阪の野球強豪校へ行ったものの、自信を失い退部。そこから学校へ行かず、河川敷で過ごす毎日をおくる。
浪人して立命館大学へ入学したものの、なにをしたいかが分からなくなり、行く意味を失う。1回生の夏から1年ほど、京都の下宿で引きこもる。
友人の支えもあり、復活。政治家の秘書やテレビ制作などのインターンをおこない、期間限定のカフェも開く。「自分のようにつらい思いをさせたくない」と思い、D.Liveを立ち上げる。
フリースクールや自信を取り戻す教室を運営。不登校に関する講演や講座もおこなっている。
京都新聞にして子育てコラムを連載中。
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