「失敗できない社会」は誰が作った?
「失敗しても何度でも挑戦できる社会へ」。
これは、D.Liveのミッションを考えるときにでた案のひとつです。
とにかく最近の世の中は、何か大きな失敗をした人に対する風当たりが強すぎる社会だと思います。確かに人道的に反する失敗も中には見受けられますが、かと言って失敗に対する批判や叱責の中にも人道的に反するものが多く見受けられます。
例えば、新年早々ある女性タレントと人気バンドのメンバーの不倫騒動が大きく世の中を賑わせました。いまや女性タレントの方はCMがほぼすべて打ち切られ、人気バンドのメンバーも生出演時に深々と謝罪するなど、社会的な制裁を大きく受けている状況です。
でも、世の中はまだ、彼らを「許していません」。決して不倫を容認する訳でもありませんし、人道的に反する失敗はしっかりとした制裁があってしかるべきだと考えています。しかし、だからと言ってそれがいじめの対象になるということは間違っていると、僕は思います。
この騒動に限らず、最近「失敗した人を吊るし上げる」ことが、あまりにも多いように思います。
『メディアと世間』の関係は、『先生と生徒』の関係と似通っている
この、「失敗した人は極端に責めてもいい」と言う風潮を作ったのは、誰なのでしょうか。
例えば、宿題を忘れた生徒がいたとしましょう。そこで先生が「なんで忘れたの?」「明日は忘れないようにね」と一声かけるか、「お前は何をやってるんだ!」と声を荒げるかによって大きく違います。特に後者の場合、それを繰り返しクラス全員が集合する前で叱責すると、余計に失敗が許されないプレッシャーが広がります。
そのうえ、生徒同士で何か失敗ごとがあったときも、声を荒げて必要以上に叱責していいんだ、というような考えが定着してしまうことになり、ますます「人生において1mmの失敗も許されない」、常に完璧を求められる人生を送ることになります。そうなれば、一度挫折したときに立ち直ることは、生半可な気持ちではできません。
この「先生がやってるんだから僕らもやっていいんだ」という風潮は、今のメディアと世間の関係とよく似ていると思います。皮肉なことに、もしメディア(先生)に落ち度があれば、同じように叩いていた世間(生徒)は「メディア(先生)のせいにできる」ところまで一致しています。
メディアやマスコミは、世間に置いて絶大なる力を持っています。メディアが報じる一言を簡単に信用する世間の人々もいる訳です。本当はすごく良い人なのに、メディアがごく一部の悪い面をこぞってピックアップした瞬間、その人は世間から「悪い人」というレッテルを張られることになります。
同じように、ある芸能人が何かについて失敗したときに、その事実だけを伝えればいいのに、最近はどうでもいい小さいことにまで口を出すメディアが本当に多いです。メディアが「あいつら許せない!」という態度でそれを報じれば、自ずと世間もそれに同調する流れになりますね。同調しても何かが変わる訳ではないのに。
最近では、「メディア」という言葉が必ずしもマスコミを示す訳ではなくなってきました。TwitterやFacebook、ブログで、どこの誰かもわからない人たちがなんでも言えるようになりました。ますます誰かが失敗すると「こいつバカじゃないの?」と吊るし上げ、しかも容易に便乗することだって可能です。
「失敗できない社会」は、めぐりめぐって自分に返ってくる
冒頭の女性タレントと人気バンドのメンバーの不倫騒動の話に戻りましょう。
この騒動では、当人たちとはまったく関係のない人たちが本当に大騒ぎしています。あるタレントは朝の番組で「バカじゃないの?」と呆れたり、違うタレントは「謝罪会見の服が気に食わない」と言いだしたり、TwitterなどSNSでは「あのバンドが出てくると無性に腹が立つ」と怒りの声をあげる人も多くいました。
そんな人たちに、僕は聞きたいです。
あなたはこの騒動でどんな不利益を被ったのですか?、と。
今回不倫したタレントやバンドのファンで他人から悪く言われるとか、この不倫騒動のせいで小遣いを減らされたとか、イメージ悪くなっちゃって宣伝できなくなっちゃったとか、そういうのならまだわかります。でも、不倫騒動が起こったところで、突き詰めて考えればさほど関係のないあなたに一体どういう不利益が生じるのでしょうか。
前述しましたが、この騒動は確かに人道的に許されない問題であり、既に彼らはCMの出演見合わせなど社会的な制裁を受けています。にもかかわらず、別に怒ったってどうしようもない人たちが声を上げて怒っていることに、僕は違和感を覚え、それが最終的に「失敗できない社会」を生み出しているのでは、と考えます。
そしてその「自分に関係のない失敗を吊るし上げる」行為は、ひいては自分自身に返ってきます。
今の世の中にはなんでも失敗を恐れる人がいます。僕もそうかもしれません。もちろん、自身の失敗によって他人に迷惑をかけることもあると思いますが、たまに失敗したところであなたには関係ないでしょ、という人が猛烈にその失敗を叱責することがあります。彼らが怖れているのは、実はここなのです。
弘法にも筆の誤りとはよく言ったものですが、いつもなんでもテキパキとこなす他人のちょっとした失敗を執拗に吊るし上げることを止めることが、失敗できない社会をつくる第一歩だと、僕は思います。