親の愛情を感じたときvol.2―10年越しに気付いた母の「懺悔」

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今週のD.Liveブログは、スタッフの「親の愛情を感じたとき」をテーマに更新しています。
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あれはちょうど1年前、当時住んでいた岐阜のアパートを引き払って実家に戻ることになり、ひとり黙々と自室の整理をしていたときのこと。もう長らく開けた記憶のない引き出しを開けると、びっしりと埋まった2枚のルーズリーフが出てきた。なんだこれ?と手を止めて目を通すと、それは母からのとある「懺悔」の手紙だった。

話は、今から10年ほど前にさかのぼる。

僕の人生における最初の大きな失敗体験は中学受験の失敗、ということは以前にも書いた。当時、学校での人間関係は良いものとは言えず、このまま中学も一緒か・・・と暗い気持ちになっていたところもあった。そんな僕に中学受験で環境を変える選択肢を示したのは他ならぬ、母だった。

冬の訪れとともに1日最低1時間の受験勉強が始まった。参考書を買ってきて、1日1科目国語・算数・理科・社会をローテーション。塾にも通わず独学で、受験校も1校に絞り、2ヶ月以上にも及んだ受験勉強は実を結び、見事学力試験をパスした。自分でもやればできるんや、と思った。しかしこれが悲劇の始まりでもあった。

受験した学校は、学力試験で受かっても入学できなかった。合否発表の翌日再び学校に行き、今度は二次試験として「抽選」に挑まなくてはならない。高校や大学の受験にはない(もしかしたらそういう学校もあるかもしれませんが)、この「抽選」と言う仕組みがまたややこしかった。

まず最初に校長がくじを引き、次に受験生が順番にくじを引く。くじには番号が書かれており、受験生は引いたらその番号を申告する。そして最後に校長のくじの番号が発表される。例えば50人中10人不合格になるとして、校長が30番のくじを引いた場合、31~50と1~19を引いた生徒が合格となり、20~29を引いた生徒が不合格になる。

つまり、校長の数字よりできるだけ近くて大きい数字を引けばほぼ入学を手中に収めることができたのだが、僕が引いた数字はあろうことに校長の3つか4つ前の番号だった。自分が引いた番号の少し先にいつまで経っても出てこない番号があって、あれひょっとして、と思っていた矢先だった。

不合格枠の番号として読み上げられる、僕が引いた番号。ちなみにこの抽選で不合格になったのはわずか5名ほど。恐ろしく狭く、しかも地獄の門を、うっかりくぐってしまう結果になってしまった。

もう、頭が真っ白だった。

なんで学力試験は通っているのに、ほんの少し「運」が足りなかっただけで全てが水の泡になるんや。それなら面接でもいいしそもそも学力試験で悪かった5人落とせばええやん。今なら「縁がなかったんだね」で済むかもしれないが、小学6年生にとってこの現実は到底、受け入れ難いものだった。

「傷つける結果になってしまって、ごめんなさい。後悔しています」

春になった。結局僕は、モヤモヤした人間関係のまま地元の中学に進学した。そして学校に行かない選択を取った。

このあたりは実は記憶がないのだが、面と向かって自分の気持ちを親に伝えるのが嫌だった僕は、どうやら家族にあてて手紙を書いていたらしい。それに対する返事として母が書いたものが、自室を整理して出てきた2枚のルーズリーフだった訳だ。その手紙の冒頭にはこう記されていた。

受験がまさかこんな結果になるなんて思ってもいませんでした。あんな形で不合格になることなんて考えてもなかった。
傷つける最悪の結果になってとても後悔しています。本当にごめんなさい。
これも全部受験を勧めた母のせいだと思っています。

・・・また恥ずかしい話なのだが、当時これを読んで僕はどう思ったのか、これも全く覚えていない。もしかしたらまったく読んでもいない可能性もある。とにかく、抽選に漏れたあの日、誰よりもこの結果を悔いていたのは他ならぬ母だったことは、間違いない。

月日が経ち、23歳になって再びこの手紙と出会った僕は片付けの手を止めて、食い入るように母の一文字一文字を目で追った。そして、あのときの母の心情に、初めて気が付き、胸が締め付けられるような気持ちになった。

10年経って気が付いた、あのときの母の気持ち

両親は、最初から僕が学校に行かないことを認めていた訳ではない。実際この手紙はその後母の中学時代の様子、担任の先生をもっと信頼しよう、ということを踏まえたうえで最終的には学校に行こうね、ということで締められていた。

結局、僕はほとんど中学には行かなかった。その代わり、市の適応指導教室やフリースクールと言った居場所を見つけ出してそこに通っていた。両親も知らない間に感化されたようで、数年後には「あんたがこういうことにならなければ、こういう道があることなんて知ることができなかった」と感謝されたこともあった。

でも、あの手紙をしたためたとき、母は自分のアドバイスが裏目に出た悔恨の気持ちと、親として子どもに教育を受けさせる義務を果たせていない気持ちに苛まれていたに違いない。父も同じ心境だったと思うと、如何に自分が親に多大な不安と迷惑と心配をかけていたか、気付かされる。

もし自分が両親の立場だったら、どんな行動をとっていただろう・・・。

ひとしきり読んで我に返った僕は、同じ引き出しにこの手紙をそっとしまった。今の生き方や歩んできた道になにひとつ後悔はないけど、いつまでもあのときのことを忘れないためにも、これは一生手元に置いておくべき手紙だと思っている。

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山本 駿

山本 駿

子どものころより過度に敏感な特性を持ち、中学3年間を不登校で過ごす。大学卒業後、不登校ボランティアを経て2014年よりD.Liveに参画し、現在は通信制高校教員を両立しながらTRY部や不登校講演事業を中心に担当。HSP(Highly Sensitive Person)特有の極度な繊細さを活かし、今を生きる子どもたちの先生でも友達でもない「ナナメの関係」になることを目指しています。