【ネタバレ注意】君に届けにみる「ありのまま」という言葉の甘いワナ その2
以前も「君に届け」という漫画を引用して自尊感情について述べましたが、
今回はそれの第2弾です。
第2弾なのに、いきなり最新刊の話を持ってこようと思います。
ご容赦下さい。
※以下、ネタバレです
簡単にいうとですね、この23巻は”あやねちゃん”と”ケント”が別れる話です。
「そのままのあやねちゃんが好きだよ」といって愛情をもって接してくれたケントにあやねちゃんも心を許していくのですが、
進路選択を機に”そのままの自分”の事が嫌いなあやねちゃんは、そんな自分を脱すべくケントと二人で通うと約束した大学ではなく、以前から心にあった東京の大学にチャレンジすることを決めます。
そして、ケントにも別れを告げます。
遠恋で良いじゃないかと思う方もおられるでしょうが、”これまでの自分”を超えるためには”これまでの自分の延長”ではダメなんですね。
そんな別れのシーンがコチラ
ちょっと分かりにくいですが
あたしを「不器用」って言ってくれたけど、
そのままでいいって言ってくれたけど
あたしはこのままでいたくない
この台詞に今回のテーマが凝縮されています。
さて、本題です。
愛するとはどういうことか
ケントが言っていた、「そのままのあやねちゃんが好き」というのは、
ありのままの自分をそのまま包んでくれそうな愛情深い言葉のように思えます。
ですが、実はそうではないと私は考えます。
この「そのままの君が好き」というような言葉は、【今この瞬間】に相手を閉じ込める窮屈な言葉だと思っています。成長したり、変わったりする相手を勘案に入れていないのです。
「ありのままの自分が好き」だとか
「全部好き」というのは、結構覚悟がいる言葉だと私は思っています。
つまり、「今この瞬間のみならず、この先自分の事を嫌いになるかも知れないあなたでさえも好きだよ」という、ある意味寂しい未来をも含めて、相手がそう変化する可能性も含めてあなたを愛するという意味がこもった言葉であるべきだと思っています。そうじゃなかったら、このあやねちゃんとケントは別れていません。【今、この瞬間】の”好きじゃないそのままの自分”でい続けないといけないことがイヤであやねちゃんはケントから離れたのですから。
さて、では自分たちの周りはどうでしょう。
あなたの周りから聞こえる「ありのままの君が好き」とか「そのままの君が素敵だよ」という言葉には、そのような概念も含まれていますか?
ぱっとしない”そのままの自分”も好きでいてくれるのはとても愛情深い事ですが、
”ぱっとしない自分をぱっとしないままに押し込めようと”している呪いの言葉に変わってはいないでしょうか?
自分もまた慈しみ深い愛情を周りの人の与えてあげられる人間でありたいですね。