「不登校を治す」という言葉に抱く違和感について

不登校を治す」。

こんな文言が含まれている書籍が少なからず存在しています。昨日もふらっと立ち寄った書店で見かけたほどです。正直な話、僕はこの「不登校を治す」という文言をあまり快く思っていません。

確かに、学校に通えたほうがいいのかもしれません。社会に出るとやっぱり「きちんと学校教育を受けてきた人」に適した世界が広がっているのは間違いないと思います。逆にそういう社会に出るために学校教育は存在している、と働いていて感じるときもあります。

しかし、人間はロボットではありません。AIでもありません。

何が言いたいかと言えば、「100%みんなが同じ考えになる」ということはまずあり得ないということです。

少し話がそれますが、僕には事あるごとに人へオススメしているとあるレストランがあります。僕がオススメしてそこへ行った人は必ず「めちゃくちゃ美味しかった!ありがとう!」と感想をくれますし、SNSなどでもたびたび美味しい!と評判になっているようなところです。

しかしそんな店でも、100%来た客が「美味しい!」と思っているか?となれば、話はまったく別です。たとえ自分の周囲がみな美味しい!と口を揃えていても、実は「あれは不味かった」と思っているかもしれないし、「2度と行きたくない!」と思う人も少なからずいるはずです。

もちろん、その考えを否定するつもりはありません。たまたまその人の口にそのレストランの味が合わなかった、それだけのことです。

そしてそもそも、人間の世界ってそういう世界だったはずなのです。

僕が不登校に関する講演をするとき、よくこんな話をします。

日本にいる小中学生全員が朝の8時半にどこかの学校の教室にいる世界を想像してみてください、と。電車はもちろん、そのへんの道端にも、なんなら家にも誰ひとり小中学生がいなくて、ひとり残らず子どもたちがみなどこかの学校の教室に着席している世界。

言葉は悪いですが、正直言って気持ち悪い世界だなと僕は感じます。

そんな世界に嫌気がさした子どもたちが、たとえばわざと5分くらい遅刻して出席したり、そもそも学校に行かないという選択肢をとるわけです。僕は毎回このことを講演で話すたび、「こんな世界には生きたくないなあ」などと思いながら話を展開しています。

学校もそうで、そのものがある以上は「合う人」「合わない人」が出てくるのは当然のことです。もちろん、なんらかのきっかけで「合わない人」が「合う人」に変貌することはあります。しかし無理やり「合わない人」を「合う人」にしようとするのは、ものすごくリスクの高い手段だと思います。

これが大人になれば、たとえば職場の雰囲気に馴染めないなら転職をするという選択肢を取れるのですが、学校に通う子どもたちはそうもいきません。仮に退学届などを出す場合も、必ず「保護者を通して」手続きが進みます。子どもの一存だけでは動くことができません。

だからこそ、「学校が合わない」という子どもたちの声に対しては、丁寧すぎるほどの対応があっても問題ないと思います。

不登校の状況や原因は千差万別です。学校は行けないけど塾は通えるという子もいますし、親を含めたすべての大人が信用できなくて不登校になる子もいます。もちろん、接し方や言葉がけで子どもの気持ちが楽になって学級復帰できたケースもあるでしょう。そこは否定しません。

しかし、不登校になった子どもたちの中には、そもそも根本的に学校という場所に向いていないが故に学校に行けなくなった子も、まったく珍しくありません。

そんな子どもさえも、「不登校を治す」必要があるのでしょうか?

まだまだ精神的に未熟で、解決策も自分の身を助ける術も知らない子どもたちを、なんとかして学校に戻さなければならないのでしょうか?

冒頭、僕は「100%みんなが同じ考えになる」ということはまずあり得ない、と書きました。確かに子どもたち全員が学校に通わないということはあり得ませんが、逆にいうと「子どもたち全員が学校に通う」こともあり得ないわけです。

だったら、すべきことは「不登校を治す」と、無理やり学校に合わない子を合うように仕向けることではなくて、「合わないなら合わないなりに生きていける手段」を作ることではないでしょうか。

先述しましたが、学校という場がある以上、その環境に「合う人」「合わない人」が出てくるのは当然のことです。そのとき、「合わない」ことを責めるのではなくて、合わないなら合わないで大丈夫だよ、別の世界を探そう、と言えると、ずいぶん子どもの気持ちは楽になるはずです。

そして、やはり繰り返しになりますが、そうした社会こそが本来あるべき人間の世界ではないのでしょうか。

この文章は、毎週火曜日の午前に開いている弊団体のフリースクール「昼TRY部」京都校で書いています。今、この文章を書く僕の前では、中学生の生徒が難しい顔をしながら英語のプリントとにらめっこしています。

彼らがこの先、どんな進路を取るか、今は僕にはわかりません。この先学級復帰できるかもしれませんし、もしかしたらずっと学校という枠から外れて生きていくかもしれない。それって「治す」という尺度で見なければならないことなのでしょうか。

もちろん、子どもが学級復帰したいと言うのならばそのサポートをする心積もりはいつでも持っています。でも、子どもの気持ちを置き去りにして「不登校を治す」必要なんてない。もしも学校が合わないのなら、合わないなりに生きていけばいい・・・。

そんなことを思っていたら、どうやら今日の昼TRY部京都校ではみんなで「カタン」をする流れになったようです。もうすでに向こうのテーブルでは準備が始まっている様子。ならば、ちょっと相手してきますか・・・。

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この記事を書いた人

子どものころより人一倍敏感な特性を持ち、中学3年間を不登校で過ごす。大学卒業後、不登校ボランティアを経て2014年よりD.Liveに参画し、現在は通信制高校教員を両立しながらTRY部や不登校講演事業を中心に担当。HSP(Highly Sensitive Person)特有の繊細さを活かし、今を生きる子どもたちの先生でも友達でもない「ナナメの関係」になることを目指しています。

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