居場所は、ただあるだけでいいのかもしれない

生徒が高校進学で、TRY部を卒業するときのこと。

「TRY部に入って良かったことは?」と、生徒に聞いてみた。

すると、彼は「仲間ができたこと」だと言った。

 

「不登校になって、すごく暇だった。孤独だった。みんなと一緒にいるのが、ただ、ただ、楽しかった」と。

 

一緒にゲームをした。
楽しいイベントに参加した。
みんなとおしゃべりができた。

など、彼は特定のなにかが良かったとは言わなかった。

ただ、ただ、すべてが楽しかった、と。

それを聞きながら、僕は思った。

「居場所は、ただ、あるだけでいいのかもしれない」と。

 

中学の時、僕には塾という居場所があった。

 

学校へ行っていない不安や寂しさ、孤独感などすべてを包み込んでくれるのが居場所なのかもしれない。

ふと、自分が中学生のときを思い出した。

学校がイヤで、誰とも口を利きたくなかった。

授業中はずっと寝ていて、ただ行っているだけの状態。

そんなとき、心のよりどころになったのが、塾だった。

電車で1時間かけて通う場所だったことで、知り合いは一人もいなかった。

学校とはまったく別の人間関係。

学校にいると息が詰まる。でも、塾へ行くと呼吸ができるように感じた。

なにがよかったか分からないけど、なにか居心地がよかった。

いろんな人がいたのが良かったのかもと今になって思う。

住んでるところも学校も違う。
中には不登校で、朝から塾に来ている友達もいた。

「自分は一人じゃない」

自覚していないけれど、きっとそう感じたと思う。

TRY部も同じかもしれない。

これまでは、とにかく子どもたちが喜ぶイベントをやろうと躍起になっていた。

でも、生徒の声を聞き、そんな必要はないんだと思った。

一緒にいる。
一緒に過ごす。

同じ時間を共有することこそ大事なんだと気づいた。

 

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この記事を書いた人

1984年 大阪生まれ 立命館大学文学部卒

中学時代は、部活に打ち込み、勉強では学年で常にトップ10以内。
しかし、中学3年生のときから学校がしんどくなり、誰とも話さなくなる。
野球選手を目指し、大阪の野球強豪校へ行ったものの、自信を失い退部。そこから学校へ行かず、河川敷で過ごす毎日をおくる。
浪人して立命館大学へ入学したものの、なにをしたいかが分からなくなり、行く意味を失う。1回生の夏から1年ほど、京都の下宿で引きこもる。
友人の支えもあり、復活。政治家の秘書やテレビ制作などのインターンをおこない、期間限定のカフェも開く。「自分のようにつらい思いをさせたくない」と思い、D.Liveを立ち上げる。
フリースクールや自信を取り戻す教室を運営。不登校に関する講演や講座もおこなっている。
京都新聞にして子育てコラムを連載中。
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