不登校は親のせいって意見に思うこと
東近江市の市長が、「不登校は、親のせいだ」という発言があった。
YouTubeなどでも、「不登校は、親が悪い」「親が変われば、子どもは変わる」という意見もある。
果たして、本当にそうだろうか?
少年犯罪などが起きると、家庭環境や親の子育てについて語られることがある。
共働きだったから。
親が厳しかったから。
親が甘やかしていたから。
「親が悪い」と言われるケースは、多い。
たしかに、親の責任は重要。
子育てや家庭環境が子どもに及ぼす影響も大きいだろう。
ただ、それをすべて「親のせい」にするのはいかがなものかと思う。
未就学の子ならば、自分で考えることは難しい。
けれど、小学3年生や4年生くらいにもなれば、自我も芽生え、自分の意思がある。
倫理観も身についてくる。
自分で判断することが出来る。
自分の頭で、なにをすべきか、どうしたいか考えられる。
決められる。
行為の責任は、やはり、子ども自身が負うべきだと思う。
“監督不行き届け”という言葉がある。
なにか問題を起こせば、それは監督の責任。管理者の責任。
でも、一番責任が重いのは、問題を起こした当事者自身だ。
世間や社会は、なにか起きたときに、おもしろおかしく脚色する。
原因を知りたいし、一番の諸悪の根源を見つけようとする。
「親が悪い」「子育てが悪い」「監督が悪い」「組織が悪い」などなど。
でもそんなものは、状況をまったく知らない他人の戯れ言に過ぎない。
子育てが悪いこともあれば、組織の問題もあるだろう。
親子関係や環境、子どもの性格によっても変わってくるので、一概には言えない。
にもかかわらず、世間はどうしても、ひとくくりにしてしまう。
「不登校の子は、○○だ」
「不登校は、親の育て方が悪い」
などと。
犯人や問題の原因を1つにするのは、とても分かりやすい。
「不登校は、親が悪い!」と言えば、親としては、ぐぅの音も出ない。
「私が悪いのか…」と自分を責める。
構図としては、ネットでの誹謗中傷と同じだ。
なにも知らない人たちがよってたかっていじめているのと同じ。
子育てに、正解はない。
だからこそ、「間違っているぞ!」と言われると、「たしかに、私の子育ては良くなかったのかも知れない」と思ってしまう。
「私は、完璧な子育てをしました」と胸を張れる人などいない。
もし、いたとしたら、それはとても大きな勘違いだろう。
(それを語れる人は、きっとあまり好ましくない子育てをしているはずだ)
叩きやすいから、みんな親を責める。
世間も、学校の先生も、子ども自身も。
「親が悪い、親が悪い、親が悪い」と。
そして、親自身を自分を責めてしまう。
「自分がダメだったんだ!」と。
人は、とにかく単純に考えてしまう。
物事を二元論で考える。
善か悪か。
正しいか、間違っているか。
良いか、悪いか。
でも、セカイはグラデーションだ。
良い人が悪いことをすることもあるし、悪人が親切にすることもある。
パワハラをする人も、猫には優しいかもしれないし、優しい人でも店員に横柄な態度をとる人もいる。
不登校は、親が悪い
あなたの子育ては、間違っている。
こんな意見は、極論すぎる。
不登校になった原因や背景の一部には、もしかしたら親の子育てが関係しているかもしれない。
でも、だからといって「親が悪い」「学校に行かなくなったのは、子育ての失敗が原因だ」というのは、あまりにも極端過ぎる。
「キミが声を枯らして応援しないから、阪神の選手が三振をしたんだ」と言うくらい横暴だ。
三振をしたのは選手であって、応援していないからではない。
選手自身の技術の問題だ。
もし、本当に応援が少なくて結果が出せていないのだとしても、それは応援している側の責任ではなく、そんなことに左右されてしまう選手のメンタリティの問題だ。
諸悪の根源なんてものはない。
分かりやすいハンニンもいないし、原因もハッキリしない。
特に、不登校というのは複合的で、「これが原因」なんてものは見えにくい。
いや、むしろ、原因なんてものはないのかもしれない。
混沌としているセカイだからこそ、僕たちはわかりやすさに惹かれてしまう。
不登校の責任や原因は、子育てにあるのではないし、親であるアナタが悪いこともない。
むしろ、不登校になってしまう社会や不登校で生きにくいこの世の中が悪いではないのか?
となると、「不登校は、市長のせい」と言ったほうがただしいのかもしれない。
いや、それも極論だな。