学校に心理的安全性なんてないし、修羅の場所だ。

2016年にGoogleが「生産性が高いチームは心理的安全性が高い」との研究結果を発表した。

そこから、心理的安全性が今、注目されている。

〈心理的安全性とは〉
「チームの他のメンバーが自分の発言を拒絶したり、罰したりしないと確信できる状態」(エドモンドソン)

 

僕は、学校には心理的安全性が存在していないと思っている。

大人は、「学校生活すらやっていけないと、社会に出て仕事は出来ない」なんて言うけど、そんなことはないと思う。

学校は、修羅の場所だ。

見えないルールがあり、お互いに空気を読み合う。まるで達人同士のやりとりさながら。

特性がある。コミュニケーションが苦手。敏感。

そのような子にとって、学校ほどしんどい場所はない。

学校には、「これを言ってはダメ」というルールがある。けれど、それは言語化されておらず、誰も教えてくれない。

やってしまったあとで、「それは言わないほうがいいよ」と言われる。

スポーツをしていて、「あっ、それね、今から禁止でーす」と言われるようなもの。

なんてこった。

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オンラインコミュニティのTRY部では、心理的安全性をとにかく大切にしている。

「なにを言ってもいい」「ここなら大丈夫」と思える場所にしたい。

もちろん、ほんとになにを言ってもいいわけじゃない。人を傷つけることはダメだし、ルールもある。

けれど、きちんと明文化するようにしている。

たとえば、「人のイヤがることは、やめましょう」みたいに。

なにが人のイヤがることか分からない場合もある。そのときは、理由を伝え、なにがダメか、どんな行為が禁止かを伝える。

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日本は、空気を読む文化だ。

でも、それはとてもしんどいし、空気を読めない人、空気を読みすぎる人にとっては、居心地が悪い。

僕は、この文化が大嫌いだった。

明文化されていないのに、「それはちょっと……」と言われるのは、なんて理不尽なんだと思っていた。

空気の読めない子は、ダメな子、悪い子のように日本では見られる。

浮くか叩かれる。

しかし、本人が悪いのではない。日本の見えないルールが高度過ぎるんだ。

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学校に居場所がない。学校では、浮いてしまう。自分を出すのが苦手。

叩かれるかもと思って、なにも言えない。

心理的安全性がなかった場所で傷ついた子たちが安心して過ごせる場所をこれからもTRY部では作っていきたい。

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この記事を書いた人

1984年 大阪生まれ 立命館大学文学部卒

中学時代は、部活に打ち込み、勉強では学年で常にトップ10以内。
しかし、中学3年生のときから学校がしんどくなり、誰とも話さなくなる。
野球選手を目指し、大阪の野球強豪校へ行ったものの、自信を失い退部。そこから学校へ行かず、河川敷で過ごす毎日をおくる。
浪人して立命館大学へ入学したものの、なにをしたいかが分からなくなり、行く意味を失う。1回生の夏から1年ほど、京都の下宿で引きこもる。
友人の支えもあり、復活。政治家の秘書やテレビ制作などのインターンをおこない、期間限定のカフェも開く。「自分のようにつらい思いをさせたくない」と思い、D.Liveを立ち上げる。
フリースクールや自信を取り戻す教室を運営。不登校に関する講演や講座もおこなっている。
京都新聞にして子育てコラムを連載中。
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