「他とは違う子の親になるなら、他とは違う親になる覚悟が必要です」

この世の中は、どうも「普通」という2文字をもってみんなと同じであることを強要したり、自分や周囲の意に沿わない人たちを排除してしまうような、そういう雰囲気があるように感じられます。
たとえば、働き方。
僕の場合はそれができなかっただけで、生まれた町で会社勤めして、家を毎日7時45分に出て、毎日5時15分に帰る。そうやって働くことができるのは、それはそれでスゴいことですからね。それはもう個性やもん。
引用:千原ジュニア(2009)『西日の当たる教室で』双葉社 P195
平日の5日間、毎朝同じ時間に家を出て、同じ時間に帰ってくる。こうした働き方をしている人はたしかに多いのかもしれませんが、それは決して「普通」ではありません。世の中にはたとえば夜勤であったり、2日~3日働いて1日休むというシフトで働いている人もいるからです。
「みんなと同じ」「多数派」ということが、必ずしも「普通」なのでしょうか。
こうして「普通」という言葉で人々を縛ることが苦痛に感じる人もいます。僕で言うなら、先に引用した千原ジュニア氏の言う「生まれた町で会社勤めして、家を毎日7時45分に出て、毎日5時15分に帰る」という働き方がまったく向いていません。この働き方が普通と言うなら、僕は普通ではないのです。
僕は自分の長所を「人と同じことをするのが苦手」だと思っていることもあって、「みんなと同じ」という根拠で普通だと言っている意見を受け流すことにだいぶ慣れましたが、やはり「普通」という言葉で比べられたり、多数派より劣っているんだぞと突きつけられる事実が辛いこともあります。
その最たる例が、学校という場所にあると思います。
とくに「学校に行くのが普通だろう」という一言で深く傷つき、落ち込む不登校の子どもたちや保護者の方はかなり大勢おられるはずです。それは暗に「自分(の子ども)は、みんなと同じこともできないのかよ」という言葉をかけられているのと等しいからです。
それに最近ではHSC(Highly Sensitive Child:過度に敏感な特性を持つ子どもたち)の存在もクローズアップされています。5人に1人該当すると言われるこの子どもたちは、怒鳴り声に圧倒されたり決まり事やルールを守りすぎるほど守るなど、学校という場でかなり神経を尖らせて生活しています。
結果、ほかの子どもよりひどく疲れたり、非HSCの子どもと比較してしまい自分に自信が持てなくなることもあります。みんなが楽々できること、普通にこなせることが、自分(の子ども)にはできない。こうして周りと比較してしまって、自己肯定感が下がってしまうことが最近問題視されています。
また家庭においても「1言えば10受け取ってしまう」特性で少し言っただけで大きく捉えすぎてしょんぼりしてしまう、ということもよくあります。大人がまったく意図していなくても「ものすごく怒られた」と感じてしまう子どもを目の当たりにして、どう接すればいいのか悩む保護者の方もいることでしょう。
『ささいなことにもすぐに「動揺」してしまうあなたへ。』などの著書があり、HSP(Highly Sensitive Person:過度に敏感な特性を持つ人)研究の第一人者であるエレイン・N・アーロン博士は、こんなアドバイスを送っています。
「他とは違う子の親になるなら、他とは違う親になる覚悟が必要です」
これは、かなり鋭い指摘だと思います。
不登校やHSCの子どもは少数派であることは間違いありません。そういう意味では「ほかとは違う」子どもであると言えますが、その「ほかとは違う」子どもを「ほか」に寄せる必要があるのかと言われると、それは「NO」だということは断言できます。
世にあふれかえっている子育てに関する本やアドバイスが、まったくピンとこないこともあると思います。または、実践しても子どもとの距離が離れてしまった、逆効果だった、ということもあるでしょう。こうした子育て本やアドバイスは、何も「全員」に通じるように書かれているわけではありません。
逆に言えば、そのアドバイスが心に響かないことも往々にしてあるわけです。
その子は、その子でしかないのです。無理に「みんなと同じ」考えに導いたり、行動を促したとしても、その子が苦しむだけです。前述したように「人と同じことをするのが苦手」という長所を持つ僕がこれを促されたら、絶対にしんどい思いをする自信があります。
「これが苦手だ」ということがあったとき、無理ぐり訓練させてその苦手を克服するのか、「その苦手とうまく付き合える方法を探していこう」と考えるのかでは大違いです。普通に育ってほしい、普通に働いてほしい、そんな曖昧な「普通」という言葉は、時として子どもたちを苦しめます。
少し冒頭でした働き方の話に戻すと、僕自身、学校で働くときは必ず上の写真のようにネクタイを着用することにしています。これが僕にとっては「普通」なのですが、中にはネクタイなんてとても暑苦しくてつけられない、という人もいるでしょう。その人にとってはノーネクタイが「普通」なわけです。
それくらい、自分の中の「普通」は、決して相手にとっても「普通」ではありません。
これまで小中高と学校に通ってきた人の子どもでも、学校に通うのが「普通」とは限りません。そこで学校に通ってきた楽しさをもって自分の経験を「普通」として押し付けると、それが普通じゃない子どもにとってはただただ辛いだけなのです。
「他とは違う子の親になるなら、他とは違う親になる覚悟が必要です」
学校がしんどそう、周囲の刺激にものすごく敏感、人とはちょっと違う反応や行動を見せたとき、もしも親の側がこの言葉を知っていたのなら、「周りと何かが違う」と悩む子どもたちの大きな味方となることは、間違いありません。