僕も「パパ活」「ママ活」に手を出していたかもしれない

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最近、「パパ活」「ママ活」という言葉が話題になっている。

「パパ活」「ママ活」とは、中高生が年の離れた男性(パパ)や女性(ママ)と食事やデートに行き、金銭の援助を受けることを指す。Twitterでは「#パパ活」などとハッシュタグをつけて相手を求める女子中高生のツイートに、大人の男性が「是非お願いします」と返信する様子が目につく。

「性的な関係を前提としない」とはいえ、実際に脅迫や性暴力など犯罪行為に発展するケースも珍しくなく、最近では警察が「パパ活」「ママ活」をサイバー補導の対象として、Twitter上で注意喚起を促している。さらに先日は「ママ活」を求めるツイートを投稿したとして、男子高校生が補導された。

もちろん、こういう許されない犯罪行為から子どもたちを守ることは大前提である。

しかし同時に、ひとつの疑問も思い浮かぶ。

「パパ活」「ママ活」に手を出す中高生のことだ。

彼らは一体なんで「パパ活」「ママ活」に手を出してしまうのだろうか。

「パパ活」「ママ活」には金銭援助が伴うとされている。つまり中高生側はお金欲しさにあえて危険な場所へ飛び込んでいるのだろうか。だとすれば「お金ぐらい自分で働いて稼げ!」という批判は正当だが、彼らがほしいのは本当に「お金」なのだろうか。

あらかじめ結論を書いておくと、僕の見解は、メディアやそれに影響される人々がこぞって「パパ活」「ママ活」をとにかく叩いたところで、たいして意味がないと思っている。「中高生にも厳罰を」とか「お金がほしいなら自分で稼げよ」という批判など、論外だとすら感じる。

なぜなら、その意見には「中高生側の視点」が完璧に欠落しているからだ。

「パパ活」「ママ活」について、あらゆるメディアの文章や映像に目を通した。それは大半が「中高生が危ない!」という視点だった。もちろん、「パパ活」「ママ活」を推奨するつもりなど毛頭ない。少しでも犯罪の匂いが漂うところから子どもたちを遠ざける必要があるのは確かだ。

でも、この問題を本気で解決したいのなら、「パパ活」「ママ活」に手を出す中高生側が何を考えているのか、どんなことを思っているのかについて突き詰めないと、まったく話にならないのではないか。

もうひとつ誤解を恐れずに書くと、高校生の僕がもし「パパ活」「ママ活」という言葉を知っていたのなら、100%手を出さなかったという自信は、正直言ってない。

決して両親が嫌いだったわけではない。むしろ気持ちが落ち着かずに荒れに荒れた中高生時代を、ときどき本気でぶつかりながらも辛抱強く支えてくれた両親には感謝している。しかしそれでも、両親には話せないことなんてごまんとある。それは思春期という多感な時期特有のものだと思う。

僕は最初に入った高校で教師の態度に裏切られ、すべての大人という存在に幻滅して信用を置けなくなった。やがて通信制高校に転入するときに、こわごわ受けた面接で2人の試験官の先生と出会った。前の学校では考えられないくらい柔和な態度に、僕のかたくなな心が少し開いた。

それから僕は入室禁止や職員会議でもない限り、空き時間ほとんどの時間を職員室で過ごした。あるときは数学の先生の後ろの席、あるときは家庭科の先生の横の席。いろんな「大人」の横にいた。「ヤマモトくん、なんの用事もないのならほかの教室に行きなさい」とよく叱られた。それでも居座った。

あのとき、心の底から欲していたのは、「両親以外の信頼できる大人」だったからだ。

家に帰ればインターネットの「チャット」に入り浸った。兄弟もいなかった僕にとって、少し年上の大学生のお兄さんお姉さんと文字のやり取りをする時間が本当に楽しかった。気があった人とはメールアドレスも交換した。極端な話、不審者でなかったら誰でも良かったかもしれない。

昔からお金に関しては無頓着なので金銭のやり取りには興味はないが、「大人がくれる安心感」に関しては、僕も高校時代に心の底から欲していたのは確かだ。

もっとも僕が「両親以外の信頼できる大人」を欲したとき、先生はもちろん、両親も「こういう場所があるよ」と、積極的にイベントや学外ボランティアを紹介してくれた。いま思えばそういうサポートに関して両親は完璧だった。いつも家に高校生でもできるボランティア募集のチラシが何枚もあった気がする。

そうして様々な年代の大人と出会い、自分もボランティアで活躍していった中で、いつしか「両親以外の信頼できる大人」がほしいという感情は消えていった。こうしてたまたま健全な人付き合いができたわけだが、一歩間違えれば「パパ活」「ママ活」のような人付き合いをしていただろう。

あらためて、彼らは一体なんで「パパ活」「ママ活」に手を出してしまうのだろうか。

僕は「お金がほしい」のではなくて、ただ、その心の寂しさを埋めてほしいだけなのだと思う。

お金があれば、たとえばちょっと派手な服を買うことができる。でもそれは「派手な服」が本当にほしいわけではなくて、単に「その派手な服を着ることで、周りからチヤホヤされたい」だけかもしれない。中高生に相応ではない、あまりにも多額すぎるお金を持っていることも問題視されるだろう。

しかしそれらも、突き詰めていけば立派な「寂しさを埋める」行為ではないか。

「パパ活」「ママ活」ではないが、自ら文房具や果ては高価なゲームまでを友達に買い与えていたある男の子が、その理由を聞かれると涙ながらに「こうしないと友達に嫌われそうで怖い」と寂しさを訴えたという事例を読んだことがある。子どもたちにとって「寂しさ」とは、もはや死活問題なのだ。

この問題、中高生の側を少し探れば、たとえばネグレクトとか異常なまでの過保護など、家庭環境に関する問題がごろごろ出てくるんじゃないかと思っている。家庭で両親からの愛情を受け止められなかった中高生が、その寂しさを紛らわせるためにあえて「パパ活」「ママ活」に手を出す可能性があるからだ。

前述したが、「パパ活」「ママ活」という行為はあまりにも危険すぎる。「パパ活」で出会った大人の男性が、そのうちにストーカー化して学校へ突撃してきた、という考えるだけで恐ろしいことも当たり前のように起こっている。

だから、中高生が「パパ活」「ママ活」に手を出そうとしているのであれば、それは止めなければならない。何度でも言うが、こういう大人から子どもたちを守る必要があるのは当然のことだ。

しかし、それでも「パパ活」「ママ活」に手を出してしまう中高生に、「お金がほしいなら自分で稼げ」と叱咤し、厳罰を科すべきなのだろうか。もしかしたら家で両親からの愛情を感じられなかった子どもたちが、その寂しさを埋めるためにやっているとするならば・・・?

いや、それでも中高生の側に責任を求める声もあるだろう。その声を否定するわけにはいかないのも事実だと思う。だけど、「パパ活」「ママ活」ではない、中高生に限らずすべての子どもたちが寂しさを感じないような、そういった関わり方を大人や保護者はできていただろうか。

ネグレクトや過保護など、両親からの愛情を受け止めきれなかった例は少し極端かもしれない。しかし、僕のように、両親の接し方に満足していてもなお、心のどこかに寂しさをもつ中高生はごまんといるはずだ。そんな中高生が、明日突然「パパ活募集!」とツイートしても不思議ではないと思う。

「寂しさ」を持つことは、もう人間である以上しょうがないのかもしれない。だからこそ、「パパ活」「ママ活」という不健全ではない子どもたちへの接し方を、いますべての大人が本気を出して考えていかなければならない時期に来ている気がする。

それこそが、「パパ活」「ママ活」撲滅への第一歩になるんじゃないかと強く思う。

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山本 駿

山本 駿

NPO法人D.Live スタッフ / 高校非常勤教員(社会科) 京都出身。中学3年間不登校。岐阜県内の大学を卒業後、不登校ボランティアを経て2014年よりD.Liveに参画。主にTRY部や不登校講演事業を担当しながら、今を生きる子どもたちの先生でも友達でもない「ナナメの関係」になることを目指しています。