目が覚める。
いま、何時だろう?と重いまぶたで時計の針を確認する。
11時20分。
ありゃ、寝すぎた。
僕は不登校だった中学生のころ、生活リズムなんて何?という生活を送ってきた。
奇跡的に9時とかに起きることもあった。
しかしだいたいは10時以降、ひどいと午後の時間にようやく目覚める有様。
とりあえず、朝食も取らないまま支度する。
「いってきます」
同居する祖父母に声をかけ、家を出たのは11時30分。
僕が通うフリースクールは、朝9時から夕方4時まで開室している。
この時間帯なら、いつ来てもいいし、いつ帰ってもいい。
なるべく朝から行こうと心がけていたが、やっぱり僕はどうも朝が苦手だった。
起きられないなりに「朝」という時間にこだわっていたのには、ひとつ理由がある。
家からフリースクールまでは、電車で片道1時間の距離。しかも途中で乗り換えを挟む。
冷静に考えてほしい。
平日のお昼という時間帯に、私服の中学生が、しかもひとりで電車に乗っている。
事情を知らないと、きっと乗り合わせたほかの客はこう思うだろう。
「この子、学校はどうしたの・・・?」
中学校より、フリースクールのほうが断然楽しかった。
味方になってくれる大人、友達が多かったのも、フリースクールだった。
しかし、この、「行きの電車」だけ、僕はいつも恐怖感を味わいながら揺られていた。
帰りの電車は夕方なので、塾に行く小学生もたまに乗り合わせる。
朝の時間帯、9時ぐらいであれば、まだ少し遅めに始まる学校に行くように見せかけることができる。
でも、お昼前、10時とか11時という時間帯は、実に中途半端なのだ。
学校をサボってどこかへ行くようにも見えるし、仮に学校としても明らかに遅刻している。
それを、いつ、ほかの客にチクリと指摘されるのか。
本当にハラハラしながら、電車に揺られていた。
「きみ、学校は?」
その言葉から逃げるかのように、僕は電車を乗り換える。
・・・間の悪いことに、15分待たないと次の電車は来ないらしい。
15分間暇ということも、「学校はどうしたの?」と思われている気がするのも、苦痛だった。
昼12時を告げるチャイムがどこからともなく聞こえてくる。
これもまた、「こんな時間にこの子は何してるのだろう?」と周囲が思ってそうで怖いな、という気にさせてくれる音だった。
電車が来た。車内には、数人しかいない。
この「数人しかいない状況」というのも、これはこれで苦痛なのだ。
どちらかといえば、「学校はどうしたの?」と声をかけられそうで怖かったのは、こういう電車だった。
身を潜めるようにして空いている席に座る。気配をさとられないように、小さくなりながら電車は進む。
「ご乗車ありがとうございました、まもなく・・・」
ああ、着く。やっとフリースクールの最寄り駅に着く。
電車を降りてからもなお、油断することはできない。
フリースクールの最寄り駅はどちらかといえば「田舎」な駅だ。
こういうところでは、逆にものすごくフレンドリーに、地域のおっちゃん、おばちゃんが声掛けしてくれることが、たまにある。
そこでまた、「きみ、学校はどうしたの?」と聞かれたら・・・。
自然と、駅からフリースクールまでの道のりも、早足でさっさと駆け抜けてしまう。
やっとフリースクールが見えてきた。よかった、今日も誰にも声をかけられなかった。
扉を開けば、「あ、やっと来た!」という、ほかの生徒の声が階段の上から聞こえてくる。
靴を脱いで、下駄箱の空いているスペースに自分の靴を静かに置く。
ようやく、気持ちがほっとできる瞬間がやってきた・・・。
弊団体が不登校の子どもたち向けに開設しているフリースクール「昼TRY部」も、大半の生徒は電車で通っています。そして、いくら短距離の電車移動でも、「途中で誰かに会うのが嫌だ」と言う理由で欠席する生徒もいます。
「気にしすぎ」という意見もあるかもしれません。しかし、不登校の子どもたちは、こうして周囲の目を気にして動けなくなることがよくあります。知り合いでも知り合いじゃなくても、そして相手が特に何も思っていなかったとしても「学校どうした?と思ってそう」と感づくことは、僕もよくありました。
残念ながら、こうして彼らが人目を気にすることは、これまでもこれからも避けられないことだと思います。こればかりは、本人の折り合いをきちんとつけることでしか解決できないでしょう。「人目が気になるから、行かない」という選択肢を許容するのも、ひとつの手です。
しかし、街行く大人たちが、平日の昼間に学校に行かない子どもとすれ違っても、気にしないことを心がけていたほうが、よりフリースクールに通いやすくなるのではないか、と考えます。
「あれ?この子、学校どうしたの?」という気持ちは、たとえ言葉に出さなくても、すぐにバレます。なぜなら目線が無意識にそのメッセージを送るからです。そして感受性豊かな子どもたちは、そんな「無言のメッセージ」を、あろうことに素直に受け取ってしまうのです。あ、また思われてるな、と。
不登校を「社会問題」として捉えなきゃいけない、と常々考えているのは、こういうところにあります。
たとえすれ違っただけでも、「おや?」と思うだけで、最悪の場合子どもたちが「外に出ちゃいけないのかな」と思ってしまう。「今、この時間でも、この電車に子どもが乗っててもいいよね」と、なんの疑問もなく受け入れる世界を、不登校の子どもたちは待っています。
そしてそれが、不登校の子どもたちを救ったり、守ったりすることにも、つながるのです。
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