不登校という「普通とは違うこと」をつぶさない
恥ずかしながら、僕は数学というものがほとんどできません。
TudoTokoやTRY部などで中高生が難しい数学の問題に面と向かっている姿をよく見かけるのですが、いつもよくやるなぁ・・・と思いながら見守っています。あまりにできなさすぎて、逆に中高生が「こんな問題もできないの!?」と目を丸くするほど。
高校のころ(僕は通信制高校に通っていました)、数学のレポート課題を解くときは、いつも1問ごとに担当の先生に解き方を教わっていました。おかげでなんとか合格することができましたが、この先生がいなかったら高校を留年していた可能性も十分あります。
それくらい数学の能力が皆無なわけですが、僕はそれでもいいや、と思っています。
それは、別に二次関数や連立方程式が日常生活においてさほど役立っていない、とかそういう次元の問題ではなく、「できないものは仕方がない」と割り切っているだけです。そのかわり、できるところでカバーしていけばいいや、と考えています。
人間ってのはもともとみんな違う。無理に”普通”にならなくてもいいはずだ。
引用:ズラタン・イブラヒモビッチ『I AM ZLATAN ズラタン・イブラヒモビッチ自伝』(東邦出版)P345
この世の中は、学校に行くことが「普通」とされています。
それは就学義務とか、国の法律や憲法によって定められていることが示しています。何を当たり前なことを言っているんだ、とお叱りを受けるかもしれません。
しかし、「普通」だという、その学校に行くことがままならない子どもたちもいます。
本人が学校に行きたい!と思っているのに、親が学校に行くことを阻害する場合、これは「義務教育」に反することになって罰せられる可能性があります。ところが、本人に学校へ行く気がない、あんなところ行きたくない、と思っている場合は義務教育に反していません。
つまり極論を言えば、不登校だからといって当事者が罰せられることはないのです。
しかし残念ながら「学校に行くのが普通」という固定概念に縛られ、毎日毎日行きたくもない場所へ通う子どもたちはごまんといます。僕はそんなとき、上で引用したスウェーデン出身のサッカー選手、ズラタン・イブラヒモビッチの言葉のように、無理に「普通」にならなくてもいいと思うのです。
イブラヒモビッチは、著書でやはりこんなことを述べています。
世の中には何千もの道がある。中には曲がりくねった道や、通り抜けにくい道もあるだろう。しかし、そんな道が、最高の道であることもある。”普通”とは違う人間をつぶそうとする行為を俺は憎む。
引用:ズラタン・イブラヒモビッチ『I AM ZLATAN ズラタン・イブラヒモビッチ自伝』(東邦出版)P383
これを「不登校」に当てはめるのなら、先ほども書いたように「”普通”とは違う人間をつぶそうとする行為」というのは学校に行きたがらない子どもたちを無理ぐり家から追い出したり、学校に連れて行くことなのだろうと考えます。
しかしそんなことをしたところで、前に進んでいるわけではありません。おそらく子どもたちはもっともっと学校が嫌いになるでしょう。このように、「普通」という自分固有のものさしに他人を当てはめ、他人の「普通」を奪う行為は、誰だって不快になります。
冒頭、僕が数学を苦手にしている話を書きましたが、イブラヒモビッチの言葉を少し借りるなら「数学嫌いな人間をつぶそうとする行為」をほとんど受けることなくこれまで生きてきたからこそ、別に数学ができなくてもいいや、と思っている節があるのかもしれません。
こんなふうに、学校が苦手、行きたくない子どもたち、つまり「学校に行くことが普通」ではない子どもたちをつぶさないために、関わり方、アプローチを考えていくことが求められてるのではないでしょうか。
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