【02.26 イベントレポ】子どもは、エイリアンだからなに考えているかなんてわからない。
「JKってひとくくりで言うのやめてくれへん?」
プロジェクタに映された女高生は、きつめの口調で言った。
「ちゃんしている大人もいれば、ちゃんとしていない大人がおるのと一緒やねん。女子高生やから、みんなJKってひとくくりにして、『今どきのJKは…』とか言うのやめて欲しいねん」
この日、僕は南草津のUDCBKにて、中高生の意見を聞いて、大人と子どもの関わり方を考えるイベントをおこなっていた。
どうしても、普段は「大人が悪い」「子どもが悪い」と言ってしまう。
でも、それでは何も解決せず、意味がない。
そこで、「子どもの意見を聞いた上で、どうするか考えてみましょう!」と、なったのだ。
各グループには5人ほどが集まり、じっくり話をする。
「どうして、そもそも子どもと大人は分かり合えないんだろう?」
「“大人”っていつからなんですかね?」
答えはきっと出ない。でも、それぞれが考えをめぐらし、答えを導きだそうとする。
大人は、ある意味ラクだ。
最悪のところ、子どもに命令するという手段が残っている。いつでも、「あれしなさい!」と言うことができるのだ。
子どもは、そうはいかない。
大人に刃向かうことは、“反逆”を意味し、「言い訳をする子」というレッテルを貼られる恐れもある。
だから、子どもはなかなか大人へ言いたいことも言えないのだ。
参加してくれていた大人たちは、ただ客観的に、純粋に問いに向かっていた。
誰かのせいにしない。
やる気やモチベーション、モラルの話も出てこない。
シンプルに、目の前にある問いと向き合う。
『子どもから見た大人は、どんなだろう?』
この問いを元にして、グループで話し合い。
僕は、いろいろなところの話しを聞きながら、自分自身でも考えていた。
なぜだ?
どうして、子どもと大人は、反発を繰り返す?
お互いが「わかって欲しい」と思い、自分の主張を通そうとする。
しばらく、考えて、1つの仮説が浮かび上がった。
もしかして…?
これは、あくまで仮説だ。
なんの確信もないけれど、そうじゃないのかなと、ふと感じた。
日本は、島国だ。
他の民族が入ってくることもなく、単一民族国家。
そのため、「きっとわかってくれるだろう」という暗黙知がはたらくのではないのだろうか?
「わからない」という前提ではなく、「わかってくれる」のが当たり前だと僕たちは考えているのかも知れない。
赤の他人ならまだしも、自分の親や子どもだったら、なおさらだ。
「わかってくれて当たり前」と思っていて、でも、わかってもらえない。
すると、期待しているからこそ、落胆する度合いも大きい。
結果、「もうわかってくれないからいい」と諦めることになってしまう。
自分の仮説に、うんうん、きっとそうだと思うぞ。
なんて1人で考えている間に、みんなは話しをすすめていた。
あるグループで、おもしろい話があがっていた。
「子どもは、エイリアンだ。大人には、わからない」
ほう。
僕は「おっ、これはおもしろい」と思い、考えを深めていった。
考えれば考えるほど、この考えがしっくりくる。
そうだ。
そうなんだ。
大人と子ども、両方とも「わかってくれる」と思っている。
それは、血が通っていたり、同じ人種だから。
でも、実は同じ人種ではなく、全く別の生き物、エイリアンなのだ。
エイリアンの好きな物なんて知らないし、なにを食べて生きているのかすらわからない。
そもそもわかるハズがないのだ。
きっと、僕たちはどこかの時点で、エイリアンから人間に変わっていくのだろう。大人も小さい頃はエイリアンだった。でも、人間になった瞬間に子どもの記憶を失っている。
子どもと大人では、見える世界が違う。
それは、エイリアンと人間だからだ。
元来、わかりあえるハズがないのに、僕たちは必死で「わかってもらえるもの」と思って接している。
わかる前提で考えるから、懸命に理解しようともしないし、コミュニケーションも多くはとらない。
でも、相手のことをエイリアンだと認めたらどうだろう?
あなたは、なんとかして相手のことを理解しようとするハズだ。
だって、なに考えているのかもわからないし、どんな生き物なのかすらわかっていないのだ。
聞くしかない。コミュニケーションをとるしかない。
E.Tのように、どこから見ても宇宙人だったらわかりやすい。しかし、あなたの前にいる子どもは、どこからどう見ても人間で、自分の血が繋がった人間だ。
「この子のことは、全然わからない」とは、なかなか考えにくい。
だから、齟齬(そご)が生まれてしまうのだ。
やっと、腑に落ちた。
そうか。そうなんだ。
子どもと大人がお互いをわかり合うなんてのは無理な話なんだ。
コウモリの発する超音波が聞こえないように、大人が子どものことを全てわかることはない。
でも、だ。
E.Tと少年が心を通わすことが出来たように、お互いに歩み寄ることはできる。
「分かる」前提ではなく、「分からない」という前提の上でコミュニケーションをおこなうのだ。
そうすると、なんとかして、お互いを理解しようと思う。
これからも、大人と子どもが全てわかり合うことはできないだろう。
だからこそ、大人から子どもたちに歩み寄ることが必要なんだろうな。
僕は、そんなことを思いながら会場を後にした。