子どもが「苦の存在」にならないために
ずいぶんと前、バスで移動中にとある本を読んでいたのですが、その一節にひどく疑問を覚えました。
「これは嫌だな」「こうなったらいいな」というところからスタートして、たとえ目的に達したとしても、新たな苦しみが生まれてしまうということです。
たとえば、待望の赤ちゃんがお腹にいたら、早く生まれてほしいと思うでしょう?そしていざ赤ちゃんが「オギャー」と生まれたら、大きな喜びを感じるかもしれません。しかし生まれた瞬間から、親にどれほどの作業が生まれるかということです。自分の自由はなくなって、お母さんは自分のためだけでなく、子どものために生きなくてはいけなくなります。責任も大きいです。
そして、待望の赤ちゃんへの「期待」が高ければ高いほど「苦」も大きくなります。引用:アルボムッレ・スマナサーラ「怒らないこと2 役立つ初期仏教法話11」P51-52
かなり長くなるので端折ったのですが、この引用のあとには、食欲は満たされなければ死ぬし一枚服を羽織らないと凍え死んでしまうが、性欲に関してはあってもなくても別にどうでもいい欲なので、真っ先に切り捨てるべき存在であるということも書いてありました。
え、それって、忠実に守っていったら最終的に「人類滅亡」になるんじゃ・・・?
怒らないこととはすなわち人類滅亡を目指す社会のことなんだろうか?と読んだ当初は非常にモヤモヤしたのをよく覚えています。ですが、最近になってこの解釈は強ち間違ってないような気もするようになりました。
上記の引用は、生きることとは「苦」そのものであり、その「苦」が楽しいということはすなわち死を意味している。「苦」は嫌なことだということは生きる以上当たり前のことであり、この「嫌」というのが怒りの基礎である、という前提があります。
今の時代、子育ては「苦」である、と考える親御さんは、ものすごく多いと思います。
旦那が子育てに協力してくれない。子どもがなんで泣いているのかわからない。街に出ればベビーカーが邪魔だと言われる・・・。これ以外にも、もっともっと子育てに関する弊害があると思います。当然、自分の趣味や好きなことをする時間も子どもに費やす必要がある。睡眠時間もまとめて取れない。
これが「苦」であり、それが発端となって「怒り」へと昇華してしまう。待望の第一子というように、どれだけ望まれて誕生して喜びに沸いた赤ちゃんでも、いざ育てていくとなると苦の連続で、それが怒りに発展したり自分で自分を苦しめる要因になっている、ということは、おそらくどこの家庭にでもあるでしょう。
こう考えると、上記の引用は残念ながら的確と言わざるを得ないのではないでしょうか。
子どもが「苦の存在」にならないために
もちろん、この世に生を受けてきた子どもたちにお前は苦しみの存在だ、なんて言えるはずがありません。大事なのは、いかにしてこの「苦」を、自分ひとりで抱え込まずに生きていくか、ということだと思います。
D.Liveでは来月、京都で自尊感情に関するフォーラムを開催します。
昨日、フォーラムの中身に関する打ち合わせをしてきたのですが、今回お呼びした4名のゲストの方は全員子育てを経験されている方だね、という話題で途中盛り上がりました。それならばひょっとしたら親目線の話題もぽんと出るかもしれませんねー、なんて話をしながら、準備を進めています。
このフォーラムでは、いよいよ編集作業が佳境を迎えた「子どもの自信白書2016」をいち早くGETすることもできます。子育てはひとりでするものではない、もしもしんどいのなら誰かに助けを求めてほしい。そんな思いで、2年目の白書も作り上げました。
フォーラムの残席も徐々に少なくなってきています。是非この機会に白書を手に取って頂き、フォーラムで学びを深めた上で、冒頭の引用のように子どもが苦の存在にならないためにはどうすれば良いのかひとりひとり考えてくだされば、と思います。
フォーラムの詳細は こちら をご覧ください!