D.Liveは、ひとりじゃない。

今でも思い出す、7年前のこの時期。
僕は大学の4年間を岐阜という街で過ごした。もちろん、親戚も知り合いも誰ひとりいない。関西弁を話せば珍しがられ、「ひらパー」なんて言っても何それ?と言われる。大学の食堂で出てくる味噌汁は、当たり前のように赤味噌。
「今日の授業、でーれしんどいわぁ」
・・・でーれ?ああ、「めっちゃ」ってことか。。。
隣の席の同級生の会話に聞き耳を立てながら、徐々に「岐阜弁」がどういうものなのか理解したほどだった。
そんな環境と、身の回りのことをすべて自分で済ます慣れない一人暮らしで日々疲弊する僕。金曜日、大荷物を抱えて登校し、3限の授業が終わればその足で岐阜駅へ向かう。京都まで2時間の道のりは、もはや毎週の恒例行事。そして夏休みも住んでいたアパートで過ごすことはほとんどなかった。
9月末、秋めいた空に思った。
正直、後期が始まるのが憂鬱だった。そのとき大学に友達がいない訳ではなかったが、別に遊んだりする関係でもなかったので、毎日大学とアパートを往復するだけの日々。そして金曜になればボロボロに疲弊して京都行きの電車に乗る。入学してからここまで、そんな単調な日々が半年間続いていた。
それが、苦痛だった。
後期が始まるガイダンスの日、僕はいまだ京都にいた。とうとう出席できなかった。翌週の授業開始にも、その1週間後も。大学から実家に休学届が送られてきた。やっぱり地元の大学に受かってればよかった、実家を離れるのはハードルが高すぎた、とすら思う日々。
しかし、僕は重い腰を上げた。そして、再び岐阜の街で、ひとりでファイティングポーズをとる決心をした。
さすがに教養科目は取れなかったが、3週遅れを取りながら必修科目だけなんとか単位を修得した。それは、ここで辞めたらせっかくそろえた家財道具やアパートの費用、苦労が水の泡になると思ったから。高校を辞めて制服やカバンが無駄になったことを考えると、2度目は許されないと言う気持ちが大きかった。
そこから、僕の人生がちょっとずつ変わっていった。
僕はそれまで、この岐阜と言う街で「ひとり」だと思っていた。それは僕が大学から5kmほど離れた地域に住んでいたのが大きかったのかもしれない。大学で会う人は基本的に大学でしか会わなかったし、大学から一歩離れれば自分だけの生活。ひとりぼっちでこの街で暮らしているようなもんだと思っていた。
だけど、それは単に自分がこの街のことを知らなさ過ぎただけだった。
アパートの近くに、柳ケ瀬商店街という大きなアーケードがあった。岐阜市の中心部にあるこの商店街は、訪れる人の減少に歯止めをかけるべく「やなな」というゆるキャラを生み出すなど、大小さまざまなイベントを開催して「まちづくり」を進めていることで注目を浴びていた。
あるとき、ひょんなことでその柳ケ瀬商店街でのイベントを手伝った僕は、それ以降足しげく柳ケ瀬に通うようになった。馴染みの店主さんもできて、ある日突然「店で飲み会やるよ」と呼び出された。「ヤマモトさん、○月×日空いてますか??」と名指しでスタッフの依頼が来ることもあった。
僕はこの街で「ひとり」じゃない。
大学の友達や後輩にも恵まれ、結局僕は岐阜に5年ほど住んだ。引っ越す前の日、しょっちゅう遊んでた仲間から餞別の品としてもらったのは、サンマのかば焼きが5kgも入った缶詰だった。しかも寄せ書きとリボン付き。なんだよこれは、と苦笑いしながら、大学卒業とプラス1年岐阜で過ごした選択は間違ってなかった、と思った。
そんな「ひとり」と言うワードを、この間ふと思い返す機会があった。
子どもの自信白書クラウドファンディングや大人TRY部など、日頃からたいへんお世話になっているNPO法人・くさつ未来プロジェクト(以下「KMP」)主催の講演会が9月19日に行われた。登壇されたのが以前から1度お話を聞いてみたかった植松努さんということで、会場に入ったころからワクワクが止まらなかった。
そしてもうひとつ、ちょっとした楽しみがあった。
D.Liveの事業でKMPのメンバーとお会いしたことは何度もある。しかし、KMP主催のイベントに参加するのは、これが初めて。いったいどんなパワーでイベントを運営しているのだろう?僕の興味はそんなところにもあった。
そして期待を裏切らず、僕は大きな「KMPパワー」に触れることとなる。
お世話になっているKMPのメンバーさんは僕や他のD.Liveスタッフを見つけるとわーっと手を振ってくれる。そして何より揃いのピンクTシャツを着た各スタッフは超楽しそう。植松さんの時折ユーモアを交えた講演もあって、とてもリラックスした状態で参加することができた。
そして帰り際、時間が押し迫る中植松さんと名刺交換をしていると、KMPの代表・堀江さんにいきなりぽーんと背中を叩かれる。
「そんなの、後でいっくらでも植松さんに紹介しとくから!!!」
そう一言残すなり、堀江さんはさっさと植松さんを次の場所へ案内していった。僕は、若干背中がひりひりしながら2人の姿をただボーっと見送ることしかできなかった。もはや、圧倒されることしか手元に選択肢はなかった。
そんな堀江さんは、元々草津に生まれ育った人間ではない。
植松さんの講演が終わった後、堀江さんはひとりステージに立ち、カクテルライトと何百人もの聴衆の視線を浴びながら、ひとつひとつゆっくりと言葉を紡いでいた。草津に移り住んだ当初のこと、10年前、KMPの前身の子育てサークルをどのようにして立ち上げたのか。みんな、真剣に聞き入っている。
そこでひとつ、引っかかったことがあった。
堀江さんも、最初はこの街で「ひとり」だと思っていた、ということ。
「ひとり」では、誰も何もできない。イベントも、子育ても、ひとりでは絶対にできない。
きっと、今のこの世の中には「ひとり」なことに悩む人が多いと思う。僕のような学生の人も、堀江さんのような子育て中の人も。でも、「ひとり」って結局考え方次第なのかなあ、と思ったりもする。
例えば、僕は旅行に出るときは大概「ひとり」で出る。でもよく考えると旅先で知人友人と合流することもあるし、ふらっと入った食堂のおばちゃんと会話することもある。確かに移動するときは「ひとり」かもしれないけど、実際は「ひとりじゃない」のだ。
そして、「ひとり」じゃないことに気が付けば、人生なんだってできるのかなあ、と言う気もする。
植松さんは今、北海道を拠点として全国各地を講演やイベントで飛び回るものすごくお忙しい方。そんな人の講演会を、しかも参加費無料で開いてしまう。「子どもの自信白書2016」を発刊するために、その費用を支援して下さる人がいる。そして、一人でも多く子育てに悩む方々へ白書を届けることができる。
考えてみれば、D.Liveも「ひとり」では難しいことも他団体をはじめとして、D.Live外の方々のご支援・ご協力があって運営できている面がある。そう、NPOも「ひとり」では何もできない存在なのだ。
僕にとって「草津」は、祖母の家がある街。産まれてから25年間1度も正月をこの街で過ごさなかった年はない。今、そんな愛着のある街に根を張るNPOに所属しているのも偶然ではない気もするし、そんな「草津」と言うフィールドには、KMPというあまりにも心強すぎる仲間がいる。
D.Liveは、ひとりじゃない。
これから先、D.LiveとKMPの化学反応は草津にどんな影響を及ぼすのだろうか。想像しただけで楽しさしかないな、と思いながら、雨降る夕方に傘をさして家路を急いだ。