先生辞めたからわかる、学校の先生だからできること

みなさん、こんにちは。
スタッフの得津です。
僕の前職は小学校の教員でした。学校の先生を辞めてもうそろそろ2年半くらいが経とうとしています。
でも、友達はやっぱり先生が多いので、友達と一緒に遊ぶときには先生として頑張ってる話をよく聞きます。
この間はこんな授業をした。
作文でこんな風に書いている子がいてすごいなって思った。
メディアでは学校現場の暗い話題ばかりが取り上げられますが、彼らから聞く話はどれもポジティブな話ばかりで、やっぱり先生っていい仕事だなぁと、彼らと話すたびに思わされます。
そんな矢先、代表から「学校の先生しかできひんことって何なん?それブログにしてや。」というお達しが。当然のように二つ返事で安請け合いをしたものの、学校の先生だからできることって何かと言われると、これがなかなか結構答えるの難しいんですよね。
勉強だったら塾があるし、体験活動は野外活動団体のお兄さんお姉さんがしてくれる。
理科の実験だって、サイエンススクールなんていうものもある。
学校の持つ機能を一つ一つ取り上げてみると、それに代わるサービスって結構ある。
だから、学校の先生だからできることというのはパッと浮かびません。
けど、学校の先生だからしてもらえることはすぐに浮かびました。
同窓会に呼んでもらえることです。
これは学校の先生の特権と言ってもいい。同窓会に塾の先生を呼んだり、毎週通ってたそろばん教室の先生を呼んだなんて話は聞いたことありません。だって、クラスのみんながお世話になった人じゃないから。塾にしろ、習い事の先生にしろ、通ってる人とそうでない人がいるから、みんなが集まる同窓会には呼べない。
もし仮に塾の先生を呼んだとしたら、その塾にいってない人は初めましての挨拶をしてなんとなく探り探りお酒を酌み交わすことになって、全然楽しくない。同窓会って、久しぶりにクラスのみんなで集まって近況を報告しあったり、クラス1の美人の変化にショックを受けたり、担任の先生が当時はこんなことがあったなと話すことに、うんうんと頷きなら当時のことを懐かしむ会でしょう。クラスの集合写真をもってきたり、卒業文集をもってきてかなり詳しく話してくれる先生もいますね。
こう考えるとなんとなく学校の先生にしかできないことが見えてくる気がしてきませんか。
それはきっと、クラスの出来事や学校での日々を、物語として生徒みんなに語ることです。これは学校の先生にしかできません。学校の先生はみなさんが思ってるよりも臨機応変に子どもたちと関わります。30人、40人が長い時間クラスで過ごしていると、予想外の事態がたくさん起こるからです。
授業では、その日子どもがもってきた草花をとりあげて授業を始めることもありますし、朝の生徒のおしゃべりからその日朝礼で話すネタを変えることもあります。クラスでトラブルが起きたときには予定していた授業をやめて、学級で解決に向けた話しあいに変わることもあります。朝の8時半から夕方前の4時ごろまで学校にいるのですから、毎日かならず何かいいことや悪いことがあります。学校の先生は、それらひとつひとつに臨機応変に対応します。
でも、塾はそうそう一人一人に合わせて臨機応変に対応するわけにはいきません。予定してた1コマ分授業しないと次の生徒が来るから、コロコロと授業を振り替えたりはできません。今日は晴れているし、外で草花の観察をしようか、なんて言えない。キャンプやサイエンススクールなど、別の習い事にしても同じです。基本的にその時間でやることは決まっているし、変わらない。
だから子どもと関わる仕事は数多くあっても、学校の先生だけが、クラスで起きる様々な出来事に非常に遭遇しやすい立場にいます。たとえクラスの中で1人しか知らない出来事でも、それをとりあげてクラスのみんなに、今日はこういうことがあってねと微笑みながら語って、クラスの物語にできるのは先生だけです。
今、子ども達は語れる先生を待っています。「自分は自分であって大丈夫」という自尊感情をもてない理由の一つに、日常に意味を見いだせないことが挙げられます。僕たちが運営する教室で一週間のふり返りをしても、「なんもない」という子もいます。
けど、何もないわけないんですよね。学校で授業うけてるし、友達ともしゃべるだろうし、給食で好きなおかずが出たかもしれない。なにかムッとしたことだってあったかもしれない。生徒達がいう「なんもない」は「(振り返りで話すほど特別な出来事は)なにもない」という意味に僕は解釈しています。
子ども達が、特別じゃない普通の日常に意味を見出すためには、子どもにとってはなんでもないような出来事を語って、子ども達に意味づけをしてあげる必要があります。これは学校の先生だからできるんです。僕たちが運営する教室では、生徒にどんなことがあったか聞くことはできるけど、出来事に対してこうだったねと語ることはできない。これができるのは、その場の空気を一緒に味わった先生だからできることです。これが、子どもの自尊感情を育てる上でもとても重要なことです。
二学期が始まりました。きっと多くの先生が、二学期はこんなクラスにしようねとクラスの生徒に話されたことでしょう。先のイメージについて語ることもすごくいいです。
けれど、「一学期はこんなことがあったね。遠足では一緒にたくさん遊んだし、お菓子を先生にくれる子もいて先生は嬉しかったな。みんなが何気ないと思う中にも、クラスで大切にしている思いやりを感じる場面がたくさんありました。二学期もこんな風にみんなと過ごしたいですね。」と一学期にあった出来事をドラマにして子ども達に語りかけることが、子ども自身が二学期もがんばろうという気持ちにさせるのではないでしょうか。