今回は、先日インタビューさせていただいた坂田さんの寄稿です。
記事をまだ読んでいないかたは、こちらもご覧下さい。
今回、縁あって自分の経験談を記事にしていただける機会をいただきました。
感謝いたします。
僕は今、個人で家庭教師をしています。
また、アートを通して、心の癒しになるような活動もしたり、ホームページ上で、僕がこれまで学んできたことを漫画にして紹介したりしています。
なんだか、いろいろやっているように見えるかもしれません。
けれども、そのどれもに共通して言えることは、「自分が身をもって学んできたことで、相手のためになると思われることを、惜しみなく差し出してゆく」ということだと思います。
自分の経験では、例えば学生の頃に味わった、ひきこもりのことなどがそうです。
ひきこもりに限らず、「ふさぎこみたくなるような出来事」というものは、大なり小なり、それはそれは誰もが日々を過ごすなかで、経験していくことでしょう。
ひきこもりの日々から一転し、世界中を見てまわることになった経験も、対談で少し話させてもらいました。
ですが、お伝えしたいことは、そのドラマの内容ではなくて、「同じ現実でも、解釈しだいでこうもかわるのか」ということを、少しでもわかっていただきたいということなのです。
そして「自分で自分に使ってあげる言葉が、どれほど大きい影響力を持っているのか」ということもお伝えしたいです。
ほとんどの人は幼い頃から、純粋に、素直に、無抵抗に、両親をはじめ、自分をとりまく人たちからの、実に様々な言葉を、浴びるようにうけてゆきます。
僕の場合は、その言葉の中に、自分で自分の評価を下げてしまうものもあったのだと、解釈しています。
言葉を習うと同時に、使う言葉の種類までも、家庭環境から学んできたのだと思います。
自分で自分にかけてあげる言葉も、それがまるで癖のように、自己評価を下げるものがありました。
その言葉の癖が、「自分なんて」という自己評価にも関わっていたのだと思います。
言葉使いの癖が思考の癖をつくっていました。
そして、「おまえは、なにもしなくても、すでにそのままでじゅうぶん素敵なんだよ」などというように、自分を根底から肯定しきれないような、思考の癖がありました。
それがあったからこそ、行動にも影響はあっただろうし、ひきこもりの根底にあったのも、そのような事情だったのだと今は理解しています。
ですので、「使う言葉の種類を選ぶ」というのは、非常に大きな力をもっているということをお伝えしたいのです。
そして「やってきた現実に対する解釈力」をおろそかにしないでいただきたい。
どんな出来事も、オセロの裏表のように、幸せのシロがかならず存在します。
ひきこもりの経験をしたおかげで、同じ道のりにふさぎ込む方々の気持ちも、経験がなかった時と比べれば、それはそれは大きく想像力がつきました。
今の自分でなきゃ伝えられなかった言葉があります。
今の自分でなきゃできなかった作品の数々があります。
あの道のりを通ってしかたどり着けなかった自分になれていることに、今は感謝しています。
一見、困ったと思えるような出来事がやってきたら、「この苦労のクロは、どうやったらシロにひっくりかえせるだろう」と、かみさまとのオセロゲームを楽しんでいただきたいのです。
すべては困ってるんじゃなくて学んでいるだ。
すべては教えてくれるためにやってきたレッスンなんだ。
僕はそう思って、日々を過ごしています。
そして、こんな楽しいゲームのような人生を、力強く歩んでいけるためには、先ほど申しましたような、自分にかけてあげる言葉の癖を、プラスのほうへとりもどしていただきたいと思います。
言葉が思考をつくり、思考が行動をつくる。
その先に出会いがあり、そこで人生が変わり出す。
これは、僕が自分の人生をもって証明した原理原則ですので、ぜひともオススメします。
ここまでお読みいただいて、どうもありがとうございました。