不登校だった僕が、自信がない子のために通訳となることを決めた話。
「あなたは、自信がある人?」と聞かれて、まっすぐに手を挙げられるだろうか?
僕が高校へ行かなくなったのは、1年生の秋。
「メジャーリーガーになりたい」と思って、大阪の強豪校へ進学した。
中学を卒業する時点で、赤星憲広ほどの脚力を持っていた僕は「自分はプロになれる」と信じて疑わなかった。
しかし、中学で特筆すべき結果を出していなかったので推薦の人とは別の一般で野球部へ入った。
つまり、誰からも期待されていなかった。
僕が「退部しよう」と決意したのは、コーチのささいな言葉だった。
苦しい夏を乗り越え、学校が始まった9月。
「ガンバってスコアラーでベンチに入れよ」
屈託なく話すコーチの顔を見て、”ああ、自分は選手として期待されていないんだ”と悟った。
そう思うと、今までずっと持っていた強い気持ちが折れた。
頭のなかで、ポキッと音がなるのを聞こえた。
コーチは、なんの悪意もなかった。
だからこそ、こたえた。
「お前なんて、どうせレギュラーなんか無理やん。わかってるやろ?」
自分なりにガンバっているつもりだった。
まだまだ全然で技術も追いつかない。
スタミナもないし、オールジャパンを経験していた同級生と比べて見劣りすることもわかっていた。
それでも、ユニフォームを甲子園の黒土で真っ黒にする自分の姿をずっと心に描いていた。
何気ない一言。
悪気のない一言。
それが僕の心には、深く深く刺さった。
流れた血は、どす黒い色を放ち、だくだくと流れた。
部活が終わり、踏切で電車の通過を待っているときに思った。
「なんで、野球やってたんやっけ?」
気がついたら、職員室で部長の前に立って「辞めます」と話している自分がいた。
ほとんど無意識だった。
それくらい、僕の心は折れていた。
「他にもっと行ける高校があるよ?」と中学の進路相談で言われたけど、「野球がやりたいから!」と選んだ高校。
僕にとっては部活を辞めることは、高校を辞めることとほぼ同じ意味だった。
その日から、僕の後悔する日々は始まった。
先輩や同級生から「帰って来い!」と言ってくれるありがたい言葉にも耳を貸せなかった。
逃げた自分が許せなかった。
「なにくそっ!」とガンバればいいことはわかっていた。
でも、ダメだった。
学校に行かなくなり、河川敷で時間をつぶす毎日。
自分がどうしてそんな状態になっているのか、当時の自分はわからなかった。
なぜ辞めたのかもよくわからなかった。
どうして、そこまでコーチの言葉が刺さったのかがわからなかった。
浪人をして、大学へ進学した僕は、周りの人たちに助けられて少しずつ自信を取り戻した。
けれど、野球部を途中で辞めた僕は、ずっと「自分はダメなやつ」と思っていた。
子どもの頃に持っていた、無垢な、根拠のない自信なんてものはとっくに消えていた。
当時から考えると100分の1くらいにはなったけれど、少なからず今でもその気持ちがある。
“逃げた自分”というレッテルを自分自身に貼っているのだ。
今は、自分でNPO法人を立ち上げて代表として団体を運営している。
けれど、奇跡的だなと思う。
駅のホームで電車に飛び込みたいと思ったこともある。
学校を辞めようと思ったこともある。
必死に勉強をして入学した大学も1ヶ月たたないうちに辞めようと考えた。
周りの人たちとの出会いがなければ、今の自分はない。
「自信がなくなる」という経験は、1人の人間を壊すほどのインパクトがある。
僕は、たまたま運が良かった。
環境に恵まれていた。
でも、きっと同じように自信が持てなくて苦しんでいる子どもはたくさんいる。
「自信が持てない」と悩む子は、たくさんいて、その子たちに手を差し伸べる機能は今の社会にはない。
河川敷でもがき苦しんでいるとき、誰にも話せなかった。
自分がなにで苦しんでいるのかすらわからなかった。
ただ辞めたことを後悔だけをしていて、未来は見えなかった。
今になって思うと、自信がなくて、人の評価を極端に恐れていたから、コーチの一言で心が折れたんだなとわかる。
でも、当時は全くわからなかった。
NPOを立ち上げたとき、「高校生のときに苦しんだ自分に向けてサービスを作ろう!」と決めた。
子どもがなにで苦しんでいるのか。
どうして悩んでいるのか。
当事者だったからこそわかることがある。
親や先生では、距離が近すぎて見えないこと、言えないこともある。
ナナメの関係として、僕が、団体が関われたら、きっと子どもたちは救われる。
自信を取り戻すことで出来る。
2014年4月。団体を立ち上げて5年目の春。
ずっとやりたかった中高生向けの教室を立ち上げた。
『子どもがみずからガンバるようになるところ』というキャッチフレーズをつけ、教室の名前をTRY部にした。
はじめは、手探り。
募集はかけず、知り合いの子だけを誘って小さくはじめた。
思い通りにいかなかったこともある。
授業で取り組む内容になんどもなんども試行錯誤し、変えていった。
1年が過ぎた頃には、それぞれの子どもたちに大きな変化が生まれた。
不登校気味だったある生徒は、滋賀から長野県へ1人旅に出かけた。
1泊2日で携帯電話も持たずに。
自分以外全員が外国人のゲストハウスに泊まり、地図を持たずに目的地へ。
「大人と話せる自信がついた」と、旅から帰ってきた彼は嬉しそうに話した。
学校すら行けなかった彼は、高校へ進学し、今では生徒会に入っている。
ネットで小説を書き、新たな1人旅を計画中。
「あの旅がめっちゃ自信になった」と、今でもよく話す。
TRY部は、通訳だ。
そう思うようになったのは、生徒たちがグングン変化していったとき。
もう、本当にびっくりするくらい子どもたちが変わる。
オセロのように、クロからシロに劇的に変わる。
勉強を教えていないのに、「医学部行きたい」と生徒が言い出して、猛烈に勉強をする。
「テストなんて別にどうでもいいわ」と言っていた生徒が、「1人1人の子どもが持っている可能性を伸ばす教師になりたい!」と言って、高校受験を目の前にして、どこの大学へ行きたいかを考える。
ある日、生徒が通う中学校の担任の先生が見学に来た。
彼女は、帰るときに驚いたようにこう言った。
「こんな姿、見たことない」と。
よく笑い、生徒同士で楽しく話している様子は、学校では見たことがないらしい。
僕が苦しんでいた高校生のとき。
自分の気持ちがわからなかった。
どうしたいのか。
どうすればいいのか。
海に浮かぶボートのように、ただただ漂っていた。
どこへ行くのかもわからずに。
TRY部に来る生徒も同じだ。
自分がどうして苦しんでいるのか。
なにに思い詰めているのか。
なんで自信が持てないのか。
答えは持ち合わせていない。
子ども自身がわからないのに保護者がわかるはずもない。
生徒のお父さん(現役の中学校教員)がある日、僕にこう言った。
「どういう魔法を使ったのですか?」と。
「自分の子どもが苦しんでいるのは見ていてわかったけど、どうしてなのかまったくわからなかったんです。
でもここに来るようになって、すっごく変わったんですよね」
TRY部は、通訳だ。
子ども自身がわかっていないこと。
親もわからないこと。
それを紐解く。
絡まった糸をほどくように。
TRY部をやっていてふと思うことがある。
「自分が子どものときにこの教室があったら、きっと野球を途中で辞めることがなかったのに。。。」と。
過去は、もう戻らない。
部長に「辞めます」と言った次の日から、野球部に戻る自分の夢を布団の中で300回以上見た。
それは、10年以上が過ぎた今でもある。
あの日、野球部を辞めた自分をずっと悔いている。
死んだら人生やり直せるのであれば、僕はいつでもこの命を捧げることが出来る。
それくらい、後悔している。
子ども達には、同じような後悔をして欲しくない。
「自信がないから。。。」という理由で、なにかを諦めて欲しくないのだ。
きっと、その先の人生で後悔をするから。
優秀そうに見えている子も意外に危険。
誰かの顔色をうかがってばかりいるのは、自分に自信がない証拠だ。
なぜなら、僕がそうだったから。
僕は、人の評価ばかりを気にしていた。
ノックでミスをするたびに「ヘタくそって思われていないかな?」とビクビクしていた。
出来ない自分がバレるのが怖くて、とにかく失敗を恐れていた。
だから、コーチに言われた言葉だけで心が折れたのだ。
苦しんでいる子どもに届けたい。
自信が持てなくて悩んでいる子どもたちが変わる手助けがしたい。
でも、その子たちを見つけることはすごく難しい。
「自信を持てなくて苦しんでいる子はいますかー?」と、世界の中心で愛を叫ぶがごとく言っても誰も反応しない。
届けたい子は、きっとどこかにいる。
TRY部は、ぜったいにその子たちの力になれる。
ただ、どこにいているのかがわからず、すごく困っている。
今年、草津市と一緒に新たなTRY部教室を開校する予定だ。
生徒は劇的に変化し、保護者や先生からも有り難い言葉をいただいている。
取り組みを行政にも評価してもらえた。
けれど、なかなか子どもたちに届けることが出来ていない。
生徒は、今は4人だ。
零細企業の僕たちは、うまく集客が出来ない。
塾に比べて、潤沢な資金があるわけでもない。
圧倒的な広報のノウハウもない。
美味しい料理を作っているのに誰もお客が来ない定食屋になった気分だ。
自信が持てなくて苦しんでいる。
どうしたらいいかわからない。
保護者としても、どんな関わりをしていいかわからない。
そんな人たちにTRY部を届けていきたい。